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社長日記

1976年10月01日

Rockin'on NO.24_1976_10

rockin'on NO.24_1976_10_P.30

小売店のおはなし
ものを売るという事

角のスーパーマーケットでは、子供の日の記念セールと名うって、シャケの切れ身を特売していた。あは。街では、アメリカ建国200年記念とかで、下着のバーゲンセールをやっていた。あは。要するに昨今の小売商というのは、ものを売るために、そのものとは直接関係のないあおりで売る事に力を入れてるらしい。

買う方にしても、60年代買物時代にやたらと色んなものを買ってる訳で、今となっては、日常的に消費する物以外に、これはどうしても買わなくては死んでしまう、というような必然性もなく街へ買物に出る訳だから、こういうあおりにはすぐのってしまう。

J・レノンは<僕たちのレコードを買う人達は、だまされたがっているのさ>と言ったけど、その発言は、つまり、レノン自身が<だましている>と自覚してい事の現れである。しかし、今の商品社会には、だましてる方もだまされてる方も、全然、自覚がない。自覚がないから子供の日にシャケの切れ身を特売だと称して売っていても、誰も不思議とは思わない。

確かに、ものを買う、というのは、快楽には違いないから(ソ連ではシアーズのカタログがベストセラーという話もある)池袋の西武デパートなんかに行ったら、一日中商品をみえてるだけでも飽きない。何んとかカタログの本は、バカバカしくて買う気にはならないが、でも、実際に読んだら、結構楽しめるのかも知れない。要するに、僕たちはデパートへ、必要なものを買いに行くのではなくて、必要なものを探しに行く訳だから、プチブルとしては、まあ、後で考えれば余計なゴミみたいなものも、いつの間にか買ってたりする訳だ。

マスコミなんてのも、考えてみれば、必要なものを売る訳ではなく、あおりを売る訳で、オリンピックもロッキードもアグネスラムも、デパートのアメリカ建国バーゲンと大して変りはないみたいだ。鈴木清順という映画監督は、新聞の一面は全て死亡通知にすべし、と書いていたけど、新聞も例えば、一面に家庭欄がくれば、それはそれで意味があるんだろうけど。

ところで、ROも最近は、あおりが多くなりまして、そして表紙をR・テイラーにすれば確実に部数が増える、という現実がありまして、しかし、ここで表紙を渋谷陽一にすると、無責任な連中に面白がれるのが関の山で、潰れるのは目に見えております。僕たちも実際には、ロックにあおられてきた訳だし、ROだってロックにあおられて出て来たみたいなものだ。だけど、ハタと考えるに、本当は、そんなものにあおられなくたって、僕たちはここまで来ただろうし、あおりの裏側に、ひっそりとたたずんでいた沈黙こそを僕たちは信じてきたのだ。ウム、

ウム。ROは何を売ってるんだろうか。ウムウム。それが分るまでは、分ってコトバに出来るまでは、実権派の渋谷社長を信頼して、あおってみるか。いいかい、ダマスからね、ちゃんと一所懸命、ダマされてみてよ。・・・・・・ヘンなの。


●橘川幸夫

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Rockin'on NO.24_1976_10_P.49

まほろば合掌団
太陽通信の章 最終回
橘川幸夫 & 本田義高

 雨の日の公園で見かけた。昨日まで火照っていたアスファルトの道が、今日はうるんでいる。生まれた時から片親だった少年が、見ず知らずの中年男になぐさめられているような、雨の日の公園。雨は、ゆっくりと、気長に降っていた。
 ゆれている、ゆれている。世界がゆれている。花がゆれている。道がゆれている。声がゆれている。あなたの肩をゆらすように、雨が降る。
雨の日の噴水。時刻がまるでオナニーのように義務的に走り抜けて行く。デパートでは夏だというのにスキーの特売セールをやっている。彼には分かっていないのだ、この夏の意味を。ウイーンが超異常乾燥でヒモノになっても、シベリアが砂漠と化しても、彼はスキーをしこたま売りまくって大儲けするだろう。悲しみとか苦しみは、彼に渡してしまえばいい。うまく、売り払ってしまうだろう。後は、僕らがだまされて売り付けられないように用心すればいい。
しかし僕は雨の日の公園で見た。だから僕は雪の日の街角でも見るだろう。それが、太陽と混じりいくものの後姿であろうとも、僕は追い求めるような事はもうしない。壊れたオモチャのように、時々思い出したように鐘を鳴らしてくれれば良い。分る、という事は<分らない>という言葉を放棄する事だから、知らない事は沢山あっても、分らない事など最初から何もなかったのだから。雨と大地が静かに愛の仕事をしている。緑色にもえている芝生たち。景色……風景でも情況でもなく、生フィルムのようにぼくの生命を盗み取る。
あなたが歩いて行く。あの山脈を、あの海原を、あの運河を、あのキレットを、この、雨の日の公園を。この、雨の日の青空を。

ユダが気恥しげに呟いた。「彼は私を愛したんじゃない。私を愛し過ぎたんだ。」しかし、僕は雨の日の公園で見た。ゆっくりと雨霧の中の道を歩いて行く姿を。大地にとっては、一本の傷痕ではない。道とは大地そのものである。だから、しっかりと道を進む、とは、しっかりと大地に広がって行く事に他ならない。雨は種子。ホオーツク海に射精された精子の群。
木立をゆする風音がにぎやかだ。ある日思い付きながら、今は忘れてしまった数々の想念。別れた恋人。
「……だからさ、君は自分のためにおしゃれしているからさ、一人よがりでキマラないんだよ(」)(」)なしタイプミス?
「…彼らは彼らの強さのゆえに滅びるさ
「君は私と会った事を大事にしすぎる
「……欲望、か。それはつまりこうだろうぁ。欲望によって愛するな、欲望を愛せよ、と。
「正解も誤解のひとつだというコトワザがあるじゃないか
「……人は、何かになろうとして、何かにならなくてはいけないと志す事によって、心の中に志行性の彼岸をつくり出してしまう。
「今時、めんくいだなんて、ふざけた話だ。君の美を求める目は充分濁っているさ 「信念を持たない奴は嫌だが、自分の信念を疑わない人ってもっと嫌
「老いる、って言葉はないさ。ただ、ゆるむって言葉がある
「池があって、どうして池の水が地面にしみこまないのか、と悩むよりは、しみこまない場所に水がたまったのが池だ、と考えるほうがラクじゃない
「ゆれるという事は大地と直結したいという事だから
「夢って、目が覚めた時、初めて見るもんだよね
忘れる。見る事の暴力が完成する事。忘れる。僕は誤って大地に付けてしまった傷をいやす。忘れる。あなたを誤って愛し過ぎてしまった事を。忘れる。あなたを見かけた事を。もう見えない。もう感じない。もう終りは来ない。時が判決を下してしまったものを、今時に向かって求刑する。決して終らない。

1976年08月01日

Rockin'on NO.23_1976_08


P.34

ナイト・ライト/エリオット・マーフィー/橘川幸夫

●最近何を聞いてる? って尋ねられ、いや何んにも聞いてないよ、と答えると相手は話の先に進めなく困ってしまう。ステレオからはエアロとか10CCとか、あるいはスパークスやロキシーが日常的に流れている。でも僕は、いや何んも聞いていない、のです。
どういう事かというと、ロックを聞くという事は僕にとっては、その音楽と音楽の意味、あるいはそれを鏡とした自分と向い合う、という事なのです。でも僕にとって、あの日(君の知ってるあの日だ)から<向い合う>という発想は消滅したのです。エリオット・マーフィーも確かに部屋に流れてます。確かに流れていますよ。

●ロックというのは音楽形式の一つの流れだから、その人その時で良く出来た作品というのはあるのだろうが、ロックが完成される、という事はない。時代が完成されるという事がないように、である。しかしロックを聞く僕たちのそれぞれの主観においては、完成、という瞬間があるのかも知れない。ロックを聞く者の<ロックの完成>という事は、しかしそれは、客観的に完成されたすばらしいロックを聞く、という事ではなて、ロックが、今までのその人にとってあったようにはあらなくなった、という事ではないか。つまり、飽きたものでも老いたのでもなく、必要としなくなる、という瞬間、あなたにとってロックは完成したのだろう。
 ベイシティもキッスも、これからも様様なスタイルに移り変りながら何度も何度も登場してくる事だろう。でも問題なのは、僕たちロックファンが、それぞれの内部で、どのようにしてロックを完成するか、という事だと思う。

●5〜6年前、毎晩のように飲んだくれて、やたらと人につっかかっては乱闘を繰り返し、年がら年中女問題でこじらせ、自殺未遂の常習者だったあいつが、しばらく噂を聞かないと思ってたら旅に出ていたらしく、何年ぶりかに新宿に帰って来た。やあ。うん。……。……。いい顔になったな。うふっ、まあな。
 最近は、こういう風景が多いのだろう。それも僕の周辺だけではなく、僕は、30代の、40代の、やはり、こういう風景を目撃したのだ。
エリオット・マーフィーも、やはり、すっきりとした顔でNYに帰って来たのだろう。君が旅をしている間、僕だってずうっとここで旅をしていたのだ。だから君が帰って来てくれてすごく嬉しい。君が、どっかの土地に幻想を持ってしまって、そこで、のたれ生きでもしてるんじゃないかと思っていたんだ。
このレコードでの彼の声は、ディランじゃなくて、丁度ハンキィー・ドリイの頃のボウイのように、都会というものを(特にその夜の部分)よく分っている、押しつぶされた声で、いい。でも、アメリカのスター一般そうであるように、色気(スターというのは僕たちの共有の娼婦・娼夫だから、スターが結婚するとファンが怒るのだ=峰岸説)が欠けている。でも、肉体における声の先行理論というものが設定されるなら、これからのアメリカに対して、魅力的な期待を持っているかも知れない。

●ROも今年になってからよく売れてるらしいし、ロックもよく売れてるらしい。でも、何んか本当に新しいと思えるような新鮮な緊張感は薄くて、多分、今は、この数年間に出て来たものの<ベストアルバム>的な作品を、新しい聴者に聞いてもらってる時なのだろう。マンガもベストアルバム的な文庫が流行っているし、ROの読者も大幅に変動しつつあるみたいだ。
 ナイト・ライトは、まあ悪くはないけど、でも、この<悪くはないけど……>的なレコードが増えてきたのも、ひとつこの時代の困難さかも知れない。

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P.65 THINKIN'ON

さようならこんにちは
まほろば合掌団
橘川幸夫+本田義高

 明るい日が続く。もう何日も何週間も何億年も続いているように続く。情報をして現代の生活をメソポタミアの文明と非ざるものとしているのならばUFOとはメディアである。とか、メディアはマッサージであるとか、とか、ずいぶんとりとめのない、すっとぼけた事を考えている。あるいは、<内的遠方>とかいう言葉があったなとか時たま思い浮べながら、スープストックのフリージングに忙しい。はて、自分はこんな人間だったのだろうかと思って鏡に向ってみると、頬のところに一本の毛が生えている。薄くたどたどしい毛が、まるで雑草のようだ。草のようだと思ったら、突然に自分は灰色の大地のように思えた。……何か、言葉をつなぎとめておく鎖が外れてしまったようで、すいません。

 かって僕は何者かであろうとして何者かであるふりをして、結局とどのつまりが、このように、こうして、説明のつかないもあいを抱いたまま食卓に座っている。もあい?何じゃこれ。こんな言葉を僕は知らんぞ。知らんけど今ここにこうして使ったからには、もあいはもあいだ。きっと何かの本に出て来たのだろう。意味などどうでも良い。僕はもあいと共に今、原稿を書いてる。
もう書きたい事とか書かねばならない事とかは何もない。ただ僕たちが、かすかに触れ、触れる事によって僕たちをこのようにあらしめたものの姿を、いくらかでもなぞって行きたい。そのための唯一の能力にたよって旅をしたい。エロスの深いまなざしのような旅を。
その昔、ある男が自分はどこまで自分であるのかを探りたくて、まず手の指を切り落し、自問した。<私は私であるか>と。次に腕を切り落とし、次に足を切り落とし、次に……と次々に切り落とし、そして最後に自問した。<これでも私は私であるが>。
この話は丁度、机の上に置かれた一個のコップの非在を証明するためにコップを無限に分割していくのと同様の存在論の不安(非在の存在論)だが、今、僕はこう考える。
私が私である事を確かめるために、何かを切り取ったり、あるいは付け加えたり(例えば、その人の主張とか個性とか地位とか世代とか……)する事そのものが既に<私>ではない。あるがままの私という純粋な宇宙は、決して自ら捨て去る事のできるような自体ではなく、付加される得るような対自でもない。
唯一者でもなく無でもない、私、とは何か。と、ここででてくるのはもちろん、<あなた>という<関係性の視座>であり、関係性の磁場な訳ですが、お湯が沸いたので、ちょっとお茶を飲みます。

僕には友人・知人がやたらと多くてとにかく東京ならどこに行ったって知ってる人が住んでる。そしてROなんかをやり始めてから更に増え、これからもっと増えるだろう。それはそれで好きだからいい訳だけど、でも実際に一個人が死ぬまでに知りあえる人間の数なんてタカが知れてる。でも僕があなたと会えたというのはちょっと違うのです。
僕が地球上の日本に生れ橘川幸夫という名の姓を受けて26年間も生きてきた事、あるは渋谷陽一という名の男から突然電話をもらった事、あるいは一人の女性と知り合って一緒に暮してる事、そういう事は偶然だと思うのです。偶然でおかしかったら、めぐりあわせでも良い。しかし、僕が僕のなかに自分を発見し、そして更にあなたとであった、という事は決して偶然ではないのです。それは、同じ日本のどこそこに生れた、とか、小学校の同じクラスの隣同士だった、なんてのと違う質の<であい>だ。出会いは偶然だが出合いは必然(あるいは論理的・志行的帰納)だと思う。ROを本屋で見かけたのは偶然でも、意識的に読み続けてきたのは偶然ではないという事です。
僕は夫婦善哉のような、男と女の生活のほほえましさ(生活とは本来的にほほえましいのだ)は嫌い じゃないが、司会者がやたらと縁(えにし)という事を言って、単なる偶然にしかすぎない出会いを、あたかも絶対的な第三者が決定した必然のように(これは西洋社会の場合は神のおみちびき、という所だが日本の場合は運命という名の自然でありましょう)言う事が嫌いで仕方がない。そういう言い方は客観的事実を絶対化して自分の無限にある生きた可能性の途を自ら閉し殺している。問題なのは単にであったに過ぎない、両者がどのように出合いを完成していくか、なのだから。

トンネルだと思う。ロックも、恋愛も、文学も、運動部も、自問自答も、宗教も、金もうけも、病気も、みんな何もかもトンネルだと思う。サマーキャンプだと思う。いろんな形をしたトンネルがあるだろうし、いろんな暗さ、デコボコがあるだろう。でも、そんな事にかかずらわりすぎて、一体、何んの為のトンネルなのか忘れてしまってはミもフタもない。君は君という名のトンネルに過ぎない。トンネルを抜ければ、もう君は君という暗黒を必要としない。時はかって川のように流れていた。しかし、今、時は海のように流れている。時間とは、距離である。何の距離かというと<私>と<あなた>との、たましいの距離である。
主張もなく、呼応もないおだやかな距離。僕はテレビを観ているのだろうか。それとも老獪なるプレイボーイにだまされている乙女のごとく、夢想を与えられたのだろうか。
現実は、しかし確かに現実は主張であるに過ぎない。しかし革命が、僕とあなたの関係の問題であるならば、決して僕の夢想は、夢想のための夢想ではないはずだ。革命の成就とは、選挙で票を伸ばす事では決してなく、警察を奪うことでもない。それは、革命を必要としなくなる、という僕達相互の客観的な関係性を創り出す事だろう。
レコード評にも書いたけど、最近はロックを夢中になって聴いていないし、僕の心情からROの初期からの読者の心情を類推するに、多分、もうROは必要としないのでしょう。その分それ以上に新しいROの読者も増えて、ま、今日は卒(←旧字のソツ)業式という風情ですな。ROもひとつのトンネルに過ぎなかったのだから。お元気で、活躍を期待してますよ。僕は当分はROの用務員のおじさん、という感じで働く事になるでしょう。
とにかく、僕は、今までも今もこれからもずうっと、ROを通してあなたの読者であります。ボンボヤージ。

1976年06月24日

21ST CENTURY SCHIZOID TIMES

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rockin'on NO.22_1976_06_P.29
21ST CENTURY SCHIZOID TIMES
手紙を読む 橘川幸夫
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紙袋の中には約300通位の手紙とか葉書が入っていて、僕は、一つ一つ、読んで行く。3時間位で一応読み終えた。つまり僕は今、3時間で300人の人達と出会った訳だ。でも、その中で、何人の人と出合ったのだろう。男の子、女の子、若い子、年の子。もう4年もの時間を、僕は、あなたと出合うために待ったのです。そして今夜も300人の通信を読み終えて、2〜3人の人に返事を出す・・・・・・この空白感。

 いろんな人がいて好き勝手なことを言うのは別にそれでもいい。でも80%の手紙は最初の2〜3行読んだだけで、ただそれだけでアキちゃう。前のと同じだ。客観的でグチっぽく無責任で・・・・・・つまりそういう人達にとってROというのは、宛名のあるゴミ箱、にすぎないのでしょう。どこを向いているのか分らない視線、誰に向かって言ってるのか分らない言葉、空虚な言葉が空虚な闇に投げ捨てられているだけ。

●年齢に甘えるな!特に中学生の人なんかは、自分が14才位でロックを聞いたりROを読んだりしている事が、何か特別な大冒険かアバンチュールのつもりでいる人がいますが、全然そんな事はありませんよ。あなたはまだ大冒険への出発もしていないんだから。もし、まだ自分は若いんだから10年位経ったら私にも何か出来るだろう、みたいな甘えがあるんだったら、そんなの捨てちゃえ。そういうことを思ってるあなたの10年後のサンプルがそこら中にいるじゃないか。14才のあなたが出来る事は、14才のあなたしか出来ない事なのだから。

●だいぶ前から言われ続けているんだけど、例えば「ROは宗派的」だとか、「岩谷は教祖みたいだ」という御忠告がありますが、でも、そういう言い方って、すごく痛みのない言い方だと思いません? 僕達自身、自分が神だと思ったことはないしそんなものになりたいとも思わないけど、人が不特定多数に向ってモノを言ったり、ステージに立ったりすれば、必然的に反対派とエピゴーネンの集団が出来る、という太古よりの歴史があって、でも少なくとも、僕達は、そういう一方通行的関係はヤダ、と言い続けてきたつりだし、その辺の僕達の努力みたいなものをあなたに感じてもらえなかったら、全く僕達の未熟の至りだけど、でも実際、あなたなりのあなた表現が多数の人に見られて、それでもなおかつあなたがタダの人でである、というのは、個人的にも情況的にもスゴイ大変な事だと思うよ。でも本来はそうあらねばならぬ訳だけど・・・・・・・・・(たださあ、ロック・ミュージッシャンはロック・ファンにとって神様だから、例えば、みんなデーコンに女房がいるとなれば、みんな裏切られたと思って頭に来る訳でしょ、だけど岩谷が子供産んでも怒らないじゃない。その違いはあると思うよ。関係ねえか。)じゃあ、もう一度ちゃんと言うね。

<僕達は神様ではありません。あなたに愛してもらいたい隣人であります>

 あっ、これ、いいフレーズだなあ。自分で感心しても仕方ないけど、説明しちゃいたくなったんで少し説明すると(ホントはこれから意味を考える)つまり、神様は<汝の隣人を愛せ>と僕とあなたの関係の外側から御命令される訳ですが、僕はタダの人だから、あなたの隣にも居ますよ、という事です。多分。

●才能のせいにするな! 才能なんて言葉を使うな! それから、これもよくくるんだけど、僕は文章書く才能ないから・・・・・・とか、僕は頭悪いから・・・・・・とか、すごくグチっぽくて何か言う前に自分で防衛線をはっちゃって、そういう臆病な人が多い。だけど才能って何? 頭の良いヒト? それだったら僕なんかまずヒドイものだ。文章書くのもギターを弾くのも、技術的な文法は最低限必要だと思うけど、あとはそれをいかに使いこなし、本質的な作業をするかだと思うの。投稿してくる文章って、大体が既にテクは持ってるよね。後はテクに磨きをかける必要なんてないから、あなたが素直に出て来ればいいのです。さあ、おいで。

●最後に一言。いいですか。母さんが台所で、あなたのおちゃわんを割ったからといって、あなたがそれを非難したりバカにしたり怒ったりしてはいけませんよ。だって、あなたが使ったおちゃわんは、あなたが洗うのが本当じゃないですか。

1976年06月01日

はなさかあかちゃん

Rockin'on NO.22_1976_06_P.56
はなさかあかちゃん

● 一人の友へ
男と女は違う、僕と君とは違う、日本と米国は違う・・・・・・今までの僕達の思考方法って、全て、それぞれの特殊性・異和点を前提として、それを拡大してゆくばかりの方法だった それゆえに文学者は痛み哲学者は苦しみ宗教者は泣いたのです でもさ、これからは僕達の共通点を、素晴しき本質のみを圧倒的に拡大していきたい。だって僕と君は名前が違う、とか、育ちが違う、とか、性格が違う、とかそんな分りきった事を一所懸命に自分自身にフィックスしたって面白くないよ もう分ってるじゃないか 君が見たものは僕が見たものだし、君に今起こった事は、ほら、僕にもこうして今起こっているよ 

● 一人の友へ
何で戦後のものすごい経済成長があったのか、って考えて、もしかしたらそれは皆んなが淋しかったからかも知れない、と思ったのです 戦争で、友や肉親やたくさんの人が死んで、生き残った人は、もう悲しくて、仕事でも何でも夢中になるしか自分を支えきれなかったのかも知れない、と、思ったのです 思っただけです、理由はありません ・・・・・・今日、僕の代好くな、板橋のおばちゃんから連絡があって、もう幸夫とは大分会ってないから、死ぬ前に一度だけでも幸夫に会っときたい、って・・・・・・あれば小学校3年の頃だった 僕は近所の銭湯に入ってて、突然、啓示のように<おばちゃんが死ぬ>という意識を受信したのだ すごく悲しくなって、僕は頭を洗いながら泣いていたハズだ でも、それは、絶対に、死への恐怖からではなく、こんなにもこんなにもおばあちゃんを愛してるって泣いたんだ

● 一人の友へ
人はパンのみで生きねばならない、という昔のROに書いてあった事を思い出して、今夜はそんな事を考えていた 今、食べてるパンの中には多種多様の神が入り込んでいる、とか、松村の文章が一番写植を打ちやすい、とか、そんな事を 確かに、 パン以外のもので生きようとして、西欧人(僕らも)は芸術を、科学を、戦争を、目指した訳で、そういうカラクリを知ってしまったから、僕は、僕を、否定した そして今、僕は、おいしいパンを食べたかってるがっつきやの僕を肯定しています つまり、機械になりたい、と言って現実的に機械になりたい、と言って現実的に機械になってしまう人は、やはりどこかおかしいのではないか バカダネェ〜、いろんな化粧を落としたらあとは、普通の、タダの人間になるしかないのでないのさ


毎日いろんな事がある。毎日いろんなことが起る。わあっ、僕は、もう、すごくて、毎日、毎日、僕は、ぼくは、すごいなあ。笑ったり怒ったり泣いたり憎んだり馬鹿にしたりされたり、すごいなあ、うん、すごい、すごいよなあ〜、もうこれ以上もこれ以下もないよなぁ〜、笑って、泣いて、でもそんな事がちっとも僕の方に帰って来ないから、やっぱ、すごいなあ、うわあ、うわあ、はちきれてしまいそう。僕をやわらかな僕達の連鎖へと導くものは、微笑そして膝。これからも、僕は一人で思考したり悩んだりしないで、皆んなと一緒に考えたり遊んだりしたい。今、実感として、大勢の微笑があり膝がある。だからもし僕がつまんない事でイジケたり、頭に乗ったりしたら、しかって下さい。孤独とは、そう孤独とは隔離されて孤立してしまう事ではない。それは敏感になる事だ。裸になって、僕達の世界に飛び出して、全身くまなく刺激を浴びることだ。そうだよな、俺、刺し抜かれてもいい!!まあそういう事だ。師は仲間なり。

1976年01月01日

Rockin'on NO.20_1976_01

お風呂屋さんのおはなし
橘川幸夫

 僕は銭湯が好きだ。と言っても別に風呂好きなものではなくて、家風呂よりも銭湯の方がよい、という事だ。別にどうという事ない気分の問題です。
 ところで最近の銭湯で気になったハナシ。でも本当は大分前から気にはなっていて、ずうっとモヤモヤしていたのです。それは、シャワーのこと。
いつの頃か銭湯の鏡の上のとこにそれぞれシャワーが付くようになって、ついた頃は随分と便利になったものだわい、と感心したが、だけどあれば隣の洗い湯がバシャバシャ飛んできて、すごく不愉快になる事がある。多分、よく分らないが僕も隣の人にひっかけているのかも知れない。せっかく洗い終わってサッパリしたところへ、隣から、シャンプーの泡みたいのが飛んで来るのは非常に不愉快な事だ。コノヤロメエ!と思っても、そこはそれ、そこは都会人、平然と飛んできた泡を流し落とす。これが本当に、水に流す、という訳。(笑い)
でもでも、よく考えてみると、あんな個人用シャワーは日本みたいな銭湯には必要ないんじゃないかなあ。あの装置はまぎれもなく欧米文化の間違った導入方法だと思うんだよ。ここんとこだよな、日本近代文学者の陥ち込んだ近代の痛み、近代の奈落というのは、うむ。
パチンコ屋というのは、あんまし隣同士で密集して当たり台を作ると客同士がぶつかったりせまくるしくなるので一台置きによく出る台を置くようにする。だから偶数が出てる日は偶数が出るし奇数が出る日は奇数が出る。というハナシだ。でも最近のは知らない。このハナシを聞いたのは僕が高一の頃、つまり10年前だからね。
銭湯とパチンコ屋では違うのだからパチンコ屋のように銭湯のシャワーもそうしろ、なんて言わないけど、そういうデリカシーのある営業をやってもらいたいと思うのです。銭湯って確かすごくデリカシーに満ちてて粋な場所だったと思ったけど、最近は何か集団人間洗濯機みたいだ。
あのシャワーを考えた犯人は誰か。僕はちゃんと知ってるんです。眼をつむれば、はっきり人相まで浮かんでくるのです。きっと5〜6年前、すごく周りがいそがしいような気分で、何か仕事をしなくちゃいけないと思った暇人なんです。いわゆるアイデア・マンといわれる輩だと思うんです。暇な奴が暇にまかせて考えた(思いついた)そんなもの発明でも発見でもありません。だって全然、必要の切実感も空間の確かな充足感もないもの。そんなの退屈でメイワクなだけだ。
つまんないアイデア・マンが残したつまんないアイデア商品はちょっと部屋の中を見回してもたくさんあります。今度、大掃除してみんな捨ててしまおう。アイデアで生きた人って、あんまし信用できません。もし本気でそうだったなら、今頃は坊主にでもなってるはずです。きっとそうです。