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社長日記

2004年07月14日

蚕豆

蚕豆


1.蚕豆の宇宙

 小さな宇宙船のような蚕豆を指で割ると、中から白い綿のようなクッションに守られた小さな豆が3つ、現れた。容器の大きさに比べたら小さな豆だ。宇宙船の冬眠カプセルに眠っているかのように、豆は静かに存在していた。

 桂乃は三軒茶屋の賑わいのある市場のような八百屋の店先で蚕豆を見つけた。一山380円だったが、それが高いのか安いのかはすぐに判断出来なかったが、無性に食べたいと思った。蚕豆は春の終わりから初夏に向かう、季節が立ち上がるほんの一瞬だけ店先に出る。「蚕豆がおいしいのは1年のうち3日だけ」という伝説もある。今は、どんな野菜や果物でも一年中買うことが出来るが、蚕豆だけは、一瞬の季節を感じさせてくれる数少ない豆である。中華料理屋に行くと一年中、蚕豆と芝海老の炒め物のようなメニューが出てくるが、冷凍物である。蚕豆ほど、露地物と冷凍物の味が違うものは珍しい。まるで違う食べ物であるかのように、蚕豆は頑固に季節を表現する。

 蚕豆はカイコのような繊毛に守られている豆なので、そう呼ばれる。あるいは蚕が繭を紡ぐ季節に実をならせるから、という説もある。空豆とも書き、畑においては空に向かってサヤを立ち上げるからという。原産地は西アジアとも北アフリカとも言われている。いずれにしても、あまり豊かな大地に生まれたものではないのだろう。蚕豆の過保護とも思えるサヤの内部構造が、この豆の苦難の遺伝子の歴史を思い浮かべる。

 人類最初の文明とともに育てられた蚕豆は、今も、エジプトや中国や、パレスチナあたりの人たちが愛する豆である。人類最古の農作物である蚕豆は、しかし、頑固に人間の意志には従わずに、自然の摂理のまま、一年に一度だけ丁寧に実をならせる。

「農業は詐欺である」

 この言葉は、桂乃が付き合っている男が、どこかの焼鳥屋の親父から聞いてきた言葉だ。男は、しばらく、この言葉が頭から離れなくなったみたいで、男の部屋に桂乃が遊びに来ても、ブツブツと、いろんなことを呟いていた。

「うん、そうだよな、古代文明というのは、農作物の発達で開けたわけだけど、農業というのは、本来そこの大地に生まれるべきではない小麦粉の種を播いて、人間の都合で水やったり、肥料やったりして、植物に錯覚を起こさせて成長させて、その結果、人間に食べられてしまうわけだから、植物の側からすれば『詐欺』にあったみたいなもんだよ」
「何いってんの、そんなの人間の側から見れば、当たり前のことじゃないの」
「そうだよ、人間の側から見ればね。でもさ、そろそろ、人間の側からだけではない視点というのを人間は持つべきなんじゃないのか?」
「なんか、頭の固いエコロジストみたいだよ、利夫の言ってることは」
「いやいや、エコロジストは、良い農業みたいなものを評価するんじゃないのかな」
「人間の歴史を否定するわけね」
「四国に福岡正信という百姓がいて、彼の自然農法というのがあるんだ。これは、耕さない、何もしない農業なんだけど。人間は、いろんなことを人間のためにやりすぎたから、何もしないことが、今は一番ラジカルなんだ」
「ふぁーん、利夫は、要するに怠け者になりたいということでしょ」
「あはははは、その通り! だから、お金、貸して!」
「うーん、もう! こないだ貸したの返してもらってないでしょ!」

 桂乃と利夫は、奇妙な出会い方をした。桂乃はある企業に派遣で仕事をしていたのだが、ある日、渋谷駅のホームで通勤電車の列に並んでいて、奇妙な嘔吐感を感じて、列からはずれてしばらく混雑するホームを歩き始めた。なるべく人混みを避けるために、人の少ない方に歩いていったら、ホームのはずれに着いた。ホームのはずれは、ラッシュ時でも、エアーポケットのように人の気配がしない。すぐ近くには、満タンの貯水タンクがあるのに、ここだけは、水が抜かれたプールのような気配がした。

 桂乃は体調が回復するまで、ぼうっとしてそこに佇んでいた。何台もの電車が肉を充填したソーセージのように人を詰めて、走り抜けて行った。電車が巻き起こす風が気持ち良かった。

「会社、サボリかい?」
 背後から急に声をかけてきたのが利夫だった。
「オレも会社がウザクなっちゃってさ、サボろうと思ってんだ。映画でも見に行かないか?」
 いきなり見知らぬ男にナンパされたので、桂乃は身構えた。渋谷や新宿の街を歩くと、あらゆる種類のキャッ男が声をかけてくるので、街では聞こえないフリをするのに慣れてた桂乃だが、これまでのキャッチの声とは違うように思えて、男の目を見た。少し潤んでいるような綺麗な目だった。
「なんだよ、怖い顔すんなよ、たまには、日常生活の階段を外してみることも、人生にとって必要だぜ」
 自分と同じくらいか、少し若いかも知れない男が、学校の先生のような口ぶりで言ったのがおかしくて、桂乃は笑った。
「いいわよ、ちょっと気分が悪くなっていたんだけど、もう大丈夫だから。今日は、サボっちゃおう」
「よっしゃあ、いこいこ!」
「ちょっと待ってね、会社に電話するから」

 桂乃は会社に電話した。
「あのー、木下佳乃ですけど、今日は休ませてもらいたんですけど、ええ、ええ、そういうことではないんですが、ええ、だから、個人的な事情なんで、ええ、はい、分かりました。よろしくお願いします」
 なんだか、会社の人ともめているようだった。
「大丈夫か? 体調悪いとか、親が病気だとか、適当な理由言えばよいのに」
「私、嘘は嫌いなんです」
 利夫は、華奢な女の子が、えらく芯があるので、少し驚いた。
「あははは、そっか、そりゃあ、正しい! 嘘ついて会社に言い訳なんかする必要ないもんな。あははは、アンタは正しい!」
                                   (つづく)