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社長日記

1990年01月06日

メディア弁慶

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標題=メディア弁慶
サブタイトル=
掲載媒体=日経トレンディ90年3月号
発行会社=日経ホーム出版
担当=福沢淳子
執筆日=900106
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 こういう話を聞いたことがある。
 ある学校で、 先生が生徒を刺すという事件があった。その先生は、あまりに温厚すぎる人で、普段、他人を押しのけてでも自分の意志を主張する人ではなかった。生徒たちは、先生の弱気さにつけこんで、授業中もおしゃべりしたり、先生をなめてかかっていた。昔から、どこの学校にもそういう先生は一人ぐらいはいたと思う。事件は、日ごろの鬱積した思いが「刺す」という直接的に行為で爆発してしまったわけだが、私たちには「荒廃した教育現場」というイメージのみが印象として残されているだけだろう。この現象だけなら、人間関係の些事として終わるのだけど、私が聞いた話は、その先生が「ハム無線」をやっていて、その世界ではスーパースターだったということなのだ。

 私は、その先生の名前も実態も知らないけど、なぜか、それを聞かされた瞬間、異様に膨らんだイメージがあり、事件に対する切ない感情すら覚えた。先生は、現実場面では、恐らく極度にデリケートで、目の前の生徒に対してストレートに自分の意見や感情を伝えることができなかったのであろう。しかしそれが「ハム無線」というメディアを媒介にした瞬間に、饒舌なコミュニケーターに変わる。「メディア」を媒介することによって、個人の内面世界を爆発させることが出来る、その先生の方が、普段その先生を直接的にいじめていた生徒よりも、はるかに「新人類的」だと思った。

 私たちの対人関係や対社会関係に、ますます「メディア」が介在することが多くなった。学校で充分すぎるほどおしゃべりしているのに、家に帰ってからも確認するかのように電話というメディアを通して会話をしなおす女子高校生。自動車や洋服や音楽という媒介を抜きにしては、会話の糸口さえつかめない大学生。普通の会話時には無口で微笑しているだけなのに、ひとたび共通の話題がみつかると、一気にその世界に没頭して多弁になる若者。

 かつて、家の中では威張っているのに外に出るとからきし意気地がないことを「内弁慶」と言った。しかし、現代では、から威張りできるだけの「家の内側」というのが崩壊してきているのだと思う。家に帰ってからですら社会的な演技を続けなければならない個人は、かつての「家の内側」という幻想空間をメディアの中に求めているのではないか。解体された「家」の中でむきだしにされた個人は、趣味やファッションという、指向性や感覚そのものを共有する仲間に、かつて「家族」が与えてくれた暖かさを求めている。

 自動車が単なる移動装置ではなく、洋服が単なる自然環境から個体を防御する衣料ではなく、音楽が単なる芸術ではなくなった時に、私たちは、周辺のあらゆるものをメディアとして認識するようになった。自動車も洋服も音楽も、今では、道具ではなく「メディアという新しい家の表札」のようなものである。

 マニアがマニア世界の中でだけ元気がいいのは、そこが「新しい家」であるということを知っているからであり、そのマニア世界の外の人間に対しての付き合い方とは、おのずと異なるだろう。外側から見れば「暗い」と思われるのも、外から見れば「家の中」に閉じこもっているように見えるからである。メディアを介したある特種な世界を家として、その中でのみ元気な人間を、便宜的に「メディア弁慶」という言い方が出来ると思う。

 そして、解体の方向は更に進んで行く。その間にいくつもの混乱と事件を引き起こしながらも、「家」が解体し「メディアという新しい家」が次々と発生していくことは厳然とした事実であろう。かつてTVのコメディアンというのは、画面に出ている時は底抜けの明るさではしゃいでいても日常生活では、意外なほどおとなしい人が多かったといわれていた。しかし、最近の若手を見ると、ブラウン管の内側も外側も、まるで同じメデイアの内側であるかのように、はしゃぎまわる。マニア世界、メデイア世界という磁界が今後ますます現実そのものを包括していくように思える。街には、すでに明るいメデイア弁慶が溢れ出してきている感じがする。