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社長日記

1981年06月10日

受動型社会から能動型社会へ

受動型社会から能動型社会へ
ビデオ・ディスクの可能性
81-06-10

●ビデオ・ディスクを見て、なによりもスゴイと思ったのは「ランダムアクセス」の機能。表現という時間の流れに対して、見者の側からストップや跳躍ができるこの機能は、これまで一方的に表現を見せつけられるしかなかった私たちにとって、ひとつの、ほんとに初歩的にしかすぎないけど、参加の余地を与えてくれる。ビデオ・ディスクをやるのなら、この機能だけに注目してやるべきだ。単なる映像表現のファシズムを繰り返すだけなら、別にビデオ・テープでも劇場用ムービーでも、他にいくらでもあるのだから。

●作者の意図というやつが表現全体に通底していて、このへんは序章で、だんだん盛り上げて、後は余韻を楽しんでもらう……という、これまでの「演出効果」がビデオ・ディスクでは根本的にくつがえされてしまう。ちんたら表現していると、子どもたちは、さっさかコマをとばしてしまうに決まってる。TVもチャンネル式からタッチ式に変わったら、ちょっとでも番組がくだらなくなると途中でもさっさか変えてしまうようになった。

●ビデオ・ディスクはTVではなくて、むしろエレクトーンのようなものではないか? どっかの誰かが勝手に「面白いもの」を運んできてくれるのではなく、それを使う1人1人が操作することによって、はじめて「面白くなりうるもの」。例えば5万4千カットの、素材としての映像が入っていて、見者は、それを演奏するようにして画像を引き出す。友人の青木文隆(ポンプ編集長)は、1コマ1コマに異なる色ベタの入っているビデオ・ディスク・ソフトを要求した。ランダムアクセスのボードは、電卓型ではなく、キーボードにしましょう。

●TVのスゴイところは、物を見せてしまうところだ。「椅子」と活字で書けば、読者は様々なイメージの椅子を作るだろうし、ラジオで「イス」と言えば、それもさまざまなイメージとして展開するだろう。つまり、受け手は各自でイメージすることによって参加できるのだ。TVに映った「椅子」は「椅子」でしかない。(ホントはTV映像にだってイメージ参加できるのだが、そのように作られていない)。TVは「面白いもの」を「面白いもの」として送りつけようとしている。ぼくらの側から面白がれる余地が、ない。洋八の表情が面白い子もいるだろうが、椅子の上に石ころが1個のっているだけの映像を面白いと感じる子がいてもいい(・・・・・)のだ。活字もラジオも面白くなくなってしまったのは、TVの方法を真似してしまったからだ。楽しいもの、分かりやすいもの……などという客観性に流されてしまい、見者の想像力を甘やかしてしまったのだ。(というよりナメてしまったのだ)。スネークマンが面白いのは、見者(聴者)の側の想像力が参加しないと面白くもなんともないシカケだったからだ。もっと、分りやすさから逃げ出すような(といっても難解という名のデタラメは困るが)活字、ラジオ表現の出現が待たれる。

●もしかしたらビデオ・ディスクと空中波TVというのは出現の順序が倒立していたかもしれない。映像表現を各自が自由に堪能できるようになった段階で空中波になれば、これはまた違った発展をしたかも知れない。鉛筆の削り方も知らない子供に、油絵を見せてしまったみたいなものだ。技術の皮肉というべきか。

●ビデオ・ディスクはエンターテイメントになり得ないから、(それはビデオ・テープで充分だから)旧来の型での商売としては、限界があるだろう。これは、ビデオ・ディスク・メーカーがいくら頑張ったって、それだけでは仕方がないわけで、社会全体が、受動型社会(空中波TV社会)から能動型社会(ビデオ・ディスク社会)へと転位していかなければなんともならん。そういうことにお金使う気、ないですよねぇー?

ポンプ引退表明

ポンプ引退表明

 ぼくは、これまでの雑誌のように、ある特定の、少数の人たちが一方的に書きまくるだけの雑誌ではない、もっと広範囲の、ダイレクトな意見や感情に触れたいと思い、「ポンプ」を創りました。まだまだ不完全なものだと思うし、このたった一冊だけの雑誌でどうにかなるとは思ってませんが、一応、最初の実験としてはうまくいったと思ってます。あとは、「ポンプ」がもっと幅広い層へと拡がっていけば良いのだと思います。


 「ポンプ」はシステムなので、第一段階の言いだしっぺの役目として、ぼくの仕事は終わったと思います。次に、この新生児をどのように成長していかせるかは、最初から一緒にやってきました青木文隆君に任せたいと思います。まる3年ですが、一応、ぼくは退場します。


 えーと、この後、ぼくはぼくで、「ポンプ」のバリエーションをいろんなところでやってみたいと思うし、それはたぶん、将来的にこの「ポンプ」とどこかでつながっていくと思います。そして、それとは別に「ポンプ」とは違う発想の種も、いろいろまいてみたいと思います。


これまで「ポンプ」に手紙をくれたみなさん、ぼく個人に手紙をくれたみなさん、ありがとう。これからも世の中をもっとコミュニケイティヴな世界にするために、生きていきます。

1981年06月01日

情報進化論

情報進化論
ヤング&子ども通信93号 81-06-01

1.うどんとコンピュータ

●ハードウェアの技術進歩というのは、ひとつのことをやれば時間の経過と共に、更にやるべきことが目の前に出てくる。結果としても、性能がアップするとか、品質が向上するとか、ちゃんと〈具体的な成果〉として登場してくる。技術者たちの、あの絶対的な自己確信に満ちた顔つきは、そういう肯定的な時間の流れに対する信仰なのではないだろうか。それに対して、ソフトウェアというのは、考えれば考えるほど、突き進めば突き進むほど、わけのわからんことが増してきて、果たして、自分のやっていることは、進歩なのか退化なのか、本当に前の方に進んでいるのだろうか……などなどという、自分の主体性基盤すら危うくしてしまう問いを孕んだ道だ。(おっと、この場合のソフトウェアというのは、社会的なそれでありまして、ハードウェアの付属的なそれではありません)。本来の文学とか哲学が辿ってきた道は、そういうものであったのだろう。ハードウェアにとって〈時〉はすべてを解決する神であるのに対して、ソフトウェアにとって〈時〉は、すべてを混乱に陥れる悪魔に映るのかもしれない。

●ハードウェアは、目的がはっきりしているから、目的に向かって最短距離を行く。ソフトウェアは目的を確かめながらアセスメントしつつ行くから、最長距離を行く。つまり(図1)。

●そして、ハードウェアの歴史は前史のノウハウをすべて蓄積していくが、ソフトウェアときたら個人が死んだら、次の世代の人間は再びゼロから出発しなければならない。エジプトの建築技術は現在でも活用できるかもしれないが、仏陀やランボーソフトウェアというものは、ただ本を読んだからといって、誰もが仏陀やランボーになれるわけはないのである。

●それでも、近代までの私たちの歴史は、ソフト先行型であったのだろう。それが近代の技術革新の結果、ハードがものすごい勢いで突っ走りはじめた。近代の初期、例えば、印刷技術のゆるやかなスタートは、ソフト面での近代文学のうねりとフィットして、見事な文化をを華ひらかせた。しかし、それ以後、急速に暴走しはじめたハードウェアの直線的疾走に、ソフトウェアのらせん運動はついていけなくなってしまったのではないか。〆切に追われる近代作家と言うのは、ハードウェアに催促されているソフトウェアという図式とイメージが合うのだ。

●例えば、ハードウェアの進歩によって生まれたTVがなぜつまらないか、というと、こう思う。TVというのは活字に比べて圧倒的に情報処理能力が高いのである。にもかかわらず、今のTV制作者側の人的レベルは、量的にも質的にも、大手出版社の活字編集レベルよりも落ちる(と思ふ)。本来、月刊誌を1冊作るべきスタッフで、新聞を作らされているようなものだ。これでは画面にスカスカが入るのは無理ないし、だから逆にCF(コマーシャル・フィルム)のように、一画面の中に、一般番組とは比べものにならないような、時間と金と人材がたたきこまれているものが、1単位あたりの情報密度が高く、見てる方も充実できるのだ。3時間ドラマに金をかけるのは何にも分かっちゃいないぜ! むしろ、それだけの資金と人を、30分の中にぶちこむべきだ。

●現在の社会構造は、ハードウェア生産優先構造であります。経済活動についても教育活動についても何につけても、そうです。学校というのは、本来、ソフトウェアの育苗であるはずなのに、今は「ハードウェアの部品としてのソフトウェア」を作る工場だ。学問は「知の展開」ではなく、「知の体系」でしかない。知を積み上げていく体系であるなら、それは本来、コンピュータがやるべきものではないのか。大学に最近入った人の感想を聞いても「授業なんか面白くない。先生の言っていることは本に書いてあることだけだもん」。知識を伝達するだけなら人間のやるべきことではない。

●人工頭脳というのが考えられている。パターン認識の処理機能が更に進化したら、あらゆる事態を想定して問題処理できる人工頭脳が登場するだろうということらしい。しかし人間のソフトウェアというのは、本来、体系をはみ出していくものである。認識を裏切っていくものである。高校生たちは「うどん」という言葉を使用する。何かというと、夜、友達から電話があって、色々おしゃべりしたいんだけど受話器の付近に母親なんかがいて、自由にしゃべれない時「うどん食べようね」と言うのだ。つまり、「そば(・・)に人がいて、思うようにしゃべれない」ことの「そば」が「うどん」という暗号になるわけです。

●こういうのをソフトウェアの開発っていうんじゃないでしょうか。体系からスルっと抜け落ちていく発想。パターン認識と言う奴がいくら結果を追っかけてても、、まるで蜃気楼のようにやわらかく逃げながら拡がっていく発想。子どもたちはコンピュータの「連想機能」を必ずふりきってくれるはずだ。

●今の学校教育というのは、既存知を、ただ囲い込ませようとする、ハードウェアの方法論での教育なのだ。子どもたちを性能の良いコンピュータに仕上げようと、パターン認識をインプットしようとする。もちろん、そうした方法論の教育も必要だ、と思う。しかし、それだけっていうのもヤバイんじゃねぇーでしょうか。現実に、コンピュータ自身のグレードがどんどん高くなってきているのに、なんでコンピュータの代用をいつまで人間がやらなくてはならないんだ。知を積み重ねていく学問(・・)から、知を崩していく学疑(・・)が必要になってくるんじゃないか。「うどん」の発想は今の学校授業の中からは生まれずに、昼休みとか放課後に生まれちゃうのだ。そこまで含めたトータルな学校経営がプログラムされるべきだ。(ついでに書くと、大学がつまらないのは、高校だと、机がいつも同じだから、隣の席の人とは日常的な生活として、交流できるけど、大学では毎回バラバラだからサークルとか仲良しグループとか、閉鎖的な人間関係しかできない、という意見を大学生が言ってたよ。生活なきところに発見なし)。

●TVでいえば、千代田TV技術学校ばかりできても仕方ないので、もうひとつ、テレビマン・ユニオンの予備校――プロデューサー塾があるべきだと思うのです。ハードウェアの生産現場から人間はどんどん消えていっているわけだから、ソフトウェアの方へ、どんどん送り込んでいけるような、そういう回路が必要になってくるはずだ。今のままでは、いつまでたっても、ハードウェアとソフトウェアの社会的バランスというのが、保てやしない。

2.メディアの面積

●さて、コンピュータの進化というのは、1単位あたりに対する情報許容量の増大、すなわち、情報処理能力の向上であります。昔だったらオフィスいっぱいの規模の機器が、今はデスクの上にのっかてる。ああ、すごいなぁ、と思いますね、単純に。でも、同じく単純に、こう思います。オフィスの余った空間に、何を置くのだろう、と。

●ビデオディスクというのを、ただの映像系の機械として、感心しても仕方ない。あれのすごいとこは、コンピュータと同じく、1単位あたりに対する情報許容量の増大であります。ビデオディスクの片面に、コマ数でいえば5万4千カットの情報が入ります。画面で10万8千カットですね。どういうことかと申しますと、1枚のLPレコードを収納するスペースに、10万8千ページの本と同じ情報量が収納されるわけです。10万ページをパルプで作ったら、大変なことになるけど、ビデオ・ディスクなら1枚何十円でできてしまう。(えらい出版社というのは、ここらへんのコスト計算を踏まえたうえで、将来のビデオ・ディスクを見ています)。

●しかし問題はそんなことではない。とござんすか、ビデオ・ディスクが登場すると、例えば、1枚のレコードの中に、50ページのビニ本が2000冊分、入ってしまうわけだ。ビニ本屋1軒分の情報が、たった1枚のレコードになってしまっては、これまでの編集方法では、どーしょーもなくなってしまう。今までどおりにやるのなら、1枚のビデオ・ディスクをつくるのに2000冊分の編集経費がかかってしまうことになるからだ。(それをやらないで、従来の方式を踏襲するだけなら、今のTVと同じに、スカスカの画面になってしまうことは目に見えている)。

●もちろん、ビデオ・ディスクはムービーとして作ってるわけで、全部がコマで使用するわけではない。ただ、情報量の原理としていっているのだ。その辺を見ようとしないで、活字→映像の単純な移行として、「やっぱり本の方が使いやすいなぁ」などと言ってる連中は、どうしようもない。更に、こういう連中が、ビデオ・ディスクのソフトの開発を担っている状況は、まったく、どうしようもない。ハードウェアの進化は、あらゆる硬い機構・仕事を合理化するだけだが、そのことによってもたらされる「メディア面積の増大」は、実は、人々のソフトウェアの労働を、機器によって合理化された分だけ、増大させるのだ。労働の質が変わるとは、「とらばーゆ」するようなことではない。会社を変わったり、脱サラしたり、転職したりすることではない。もっと、本質的な「仕事に対する自覚」の変化(とらばーゆ)が起こって良い時期だ。

●私たちの「メディアの面積」は、飛躍的に増大しつつある。印刷技術の進化、流通のシステム化はプリント・メディアの面積を拡大した。ところが、ソフト・ウェアの技術は百年一日であり、その結果、今はどこの出版者に行ったって、「なぁんか、企画、ねぇーかーい!」ってなもんだ。みんな、せっかく拡がったスキマを、まにあわせで埋めることに一生懸命なんだ。ビデオ・ディスク・マガジンは、一体、誰が編集するつもりなのだろう。

●ここで、ほくそえむのが私であります。今の段階で、メディアの面積が狭すぎたり、中途半端であることに、いらだっているのは、恐らく一部の「情報誌」と「投稿誌」のシステム・エンジニアぐらいのものだろう。投稿誌(例えば「ポンプ」)の最大のネックは、送られてきた手紙を全部のせきれないということです。1000ページ程度じゃ、しょうがないけど、10万ページだったら、どすこい、というカンジである。あとは、パソコン等の普及によって、手紙のピック・アップ処理機能さえくっつけば「ポンプ」の編集は、ひとりひとりの「読者」の手にまかせられる。

●えんやら! もっと別の話をしよう。例えば、こんなことを考えてる人がいる。FMラジオってあるでしょ、あれ、ステレオだけど、音楽ならともかく、教育講座とかニュースなどはステレオでやる必要、ないですね。そういう時は、いっそのこと、右のソースと左のソースで、別々の番組を流しちゃおう、というプランなのです。右側のスピーカーからはニュースが流れてて、左側のボリュームを上げて右側を切っちゃうと、教育番組が流れてくる、というわけ。世の中、すごいことを考える人がいるなぁ、と思いました。TVの音声多重がそうですね。聞くところによると、大阪の音声多重の野球中継で、めちゃくちゃにタイガースを応援するアナウンサーが活躍してるそうだ。ポイントはここなんです。メディアの面積が狭いと、結果、情報は一般化され、味もそっけもない番組だけになってしまう。あたりさわりのない「公共性」などという、わけのわからんモラリズムが支配しちゃっている。ところが、面積が拡がれば、拡がったスキマにすーっと、新しい発想が入りこめるはずだ。右のスピーカーでは巨人びいきで、左は広島ファン、とかね。もっともっと分解していけるはずなんだ。論理的にはひとりひとりが放送局になれるまで。

●雑誌でいえば、一雑誌あたりの発行部数が伸びることが「メディアの面積」が拡がることではない。専門誌、クラスマガジンと、中規模の雑誌の種類が増えたということが、70年代の出版上の成果であったと思うのだ。メディアの面積が拡がった時に、旧来の編集方法ではやっていけなくて、一番てっとり早い方法として選んだのが、基礎データの徹底的な情報処理である。いわゆるカタログ文化、情報誌時代。しかし、今や、その方法さえも、拡がる一方のメディアの面積に対応できなくなりつつある。フランスの街の情報が、それこそ渋谷のタウン・マップと同じレベルで流されてしまえば、それから先はどうするんだい。「アングル」に一時の勢いはなく、もうやることねぇんじゃないの、というカンジだ。情報誌というのは、確実に残るわけだけど、それが時代の方法論であった時代は終わりに近づきつつある。さて、諸君! ジャーナリズムの時代が再びくるわけだけど、情報誌体験以前と以後では、読みテの内容が全然違うわけで、ノスタルジーとしてのジャーナリズムで済むと思ったら大間違いでっせ! 共に模索する人を望む。

3.参加型メディアのコスト問題

●メディアの面積が増大すると、その隙間に大量の人間が流れ込む。最終的には完全双方向のマルチWAYになるんだけど、そこまで辿り着くには、まだまだ過渡期の混乱をくぐり抜けなければならない。

●オールドメディアは、現実的な穴埋めと、次の時代のステップを兼ねた「参加型番組」に力を入れている。ここで問題になってくるのが、「ソフトウェアのコスト問題」である。

●ぼく自身、各種の「参加型メディア」の体験があるから、はっきり分かるんだけど、例えば、この本のように、1人で1冊の本を書けば、定価×部数×10%(印税)=筆者の原稿料である。ところが、これを参加型にすると、1000人で1冊の本を作ったら、一人当たりの原稿料は1/1000になってしまう。この1000人に原稿料を振り込む手数料を考えたら、今の編集方法だったら完全にマイナスになってしまう。(「オールナイトフジ」の女子大生のギャラは一晩1万円にしかならない)

●音楽レコードの、ある種の「参加型メディア」として「ライブ・アルバム」というのがある。これは、スタジオで完成された作品としてではなく、コンサート会場で聴衆・熱気が参加することによって成立するレコードの形態である。だとしたら、正確に言えば、ライブ・アルバムとは「ミュージシャンと聴衆が共同して作った作品」ということになる。ヤジの一声、歓声嬌声のひとつひとつに著作権があっても当然である。今のようなレコードなら、まだ問題がないが、ビデオ・ディスクになって、具体的に個人の顔が映ってくるようになると、もっと問題がはっきりしてくる。つまり、今の著作権協会が、著作者の権利を守る、という論理を通すならば、当然、参加型メディアの著作者たちの権利を守る立場でなかったら、論理の破綻だ。ぼくは、つまらない揚げ足取りを言っているつもりはない。ニューメディアというものが、どうしても、参加型メディアにならざるを得ないのは自明だから、それに合わせて「著作権」という概念も「製作コスト」の算出方法も、新しいものを生み出さないと、混乱が増すばかりですよ、と、言いたいわけです。

●ハードウェアの進展は必然的に「メディアの面積」を増加させるわけで、例えば映画界だと「無声映画(トーキー)」に「音の面積」が加わり、更に「シネラマ」になっていく。映画産業自体に活力と底力があるうちはどんどん新しいハードウェアを吸収していける。ところが現在のように、娯楽の種類が増え、パーソナルになっている状況では、せっかく「オムニマックス」のような、映像系の途方もないシステムができても、これはハードウェアもソフトウェアも「メディアの面積」が増えた分、コストがベラボウにかかるから、民間の映画会社なんか、ちっとも手を出そうとしない。映画会社は今こそ、ビデオなんかで、あまりもののソフトを処分しようとしないで「オムニマックス」のソフトを開発する方に、会社を持っていくべきなんだと、思う。オムニでアニメが見たい!

4.職業傾向

●そろそろ、その徴候が現れてきたんだけど、仕事のできる編集プロダクションは、出版社との付き合いに見切りをつけて、コンピュータ関連の会社に接近している……というような話を環境デザイナーの坂本正治さんに言ったら、「そうして、出版物はどんどんつまらなくなっていくんだな。文化ってそういうもんだよ。写真機が登場した時、それまで絵画をやってた連中がそっちへ流れていったし、TVが出来た時だって映画に行く奴がTVの方に行っちゃった」と、言った。

●中高生に将来の希望職等を聞くと、マスコミというのはトップなんだけど、小説家というのはペケから何番という位の不人気だ。そうだよな、今時、小説家になりたいなんていう人の時代感覚なんて信じられないしな。現実的に優秀な人材はマスコミ(情報産業)を目指しても、小説家みたくはならないんだろうな。そういう中高生の間では、「写真」もすでに「小説」並みの暗さが漂っておりまして、今はむしろやっぱり「ビデオ」が注目されています。

●今のビデオディスクなんて、作ってる人も買ってる人も、一体これがなんの機械なのかまるで分かっちゃいないんではないか、と思えるほどの無残な状況だ。買う方は、一時代前の「百科事典」を買った連中と同質の購入動機ではあるまいか。作る側は相変わらず「小説家志望」の連中だ。やれやれ。

5.頭のイイ人

●ハード機器の進化なんて、単純なもんだから、みんなおんなじなんだよね。スピード・アップ、だけです。交通マシーンはもちろん、情報マシーンだって、メディアの面積を拡大するということは、つまり、情報流通のスピードをアップするということだ。その結果どうなったかというと、大昔だったら、ある天才の発見したことは何十年、何百年かかって世の中に伝わり認知された。(本人が死んだ後にね!)ところが今や、天才の発見も、あっというまに普通のことになってしまう。流行のサイクルがどんどん速くなってきたのも、実は「メディアの面積」が急速に拡大したからなのだ。音楽を作っても、小さなコンサート・ホールでは観客数十人を集めて伝えるしかなかった時代と、あらゆるメディアを通して伝わってしまう現代とでは、まるっきり状況が違うんだな。

●だから現代において「頭のイイ人」というのは、ボー大な情報を抱えこんで、それを土台にしてじっくりと正しい判断・評価を下す人ではなく、次から次に現れる現実に対して即座に個的な反応ができる人、つまり、「頭の回転の速い人」のことである。カビ臭い大学教授ではなく、タモリやタケシが現代のインテリ像である。ハードウェアとしての「メディアの面積」が拡大してしまった現代においては「ボー大な情報量」というものは、個人が努力して獲得しなくても、すでに前提として、私たちが共有しているわけです。この「前提」を目的にするか、あるいは舞台にするかで、これからの私たちの学問・仕事・文化全般のやり方が大きく変わってくるような気がする。

●昔の知識人は、共有すべき知識ベースの占有権を勝手に主張しただけの話なのだ。しかし、考えてみれば分かるように、情報や知識は、大地や空気と同じように、特定の誰々のものではありえない。ハードウェアによる「メディアの面積の拡大」は、情報地主に対して情報解放を要求するだろう。情報を抱え込むタイプのインテリから、情報の広野を走り回るタイプのインテリへ、時代は今、そんなところ。