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社長日記

1980年03月06日

題名なし

1980_03_06

 結局、何かカッコイイことを言うために出てきた人と、何かを言うためにカッコよくならざるを得なかった人との差というのが分ってしまった。笑いを目的化してしまった「パロディ」はroまらない。笑いとかオカシミというのは、何かの行為や所差の分泌物として出てくるものであって、客観的は笑いや作品としての笑いなんて、笑えない。

自分が生きてることは作品にならない。何かを言うために、ぼくは生きているのではない。ぼくは自分が生きていくために、どうしようもなく「言葉」を分泌してしまうだ。なんか思いっきり気恥かしいけど、実際にそうなんだからしかたがない。なんか一所懸命カッコイイことを言おうとしたり、自分の言った言葉にとらわれて自己規制しちまってる連中を見てると、たまんないよ。言葉の奴隷だ。なんで自分の過去に自分の未来をあずけなけりゃいけないんだ。

もう何もかも分ってしまっている。少なくともぼくは一番大切なことだけは分ってるつもりだ。そうだ、ぼくはぼくの限られた生の中で理解すべきことは理解しちゃったし納得すべきことは納得し終えている。あとはスムーズに崩壊していくだけだ。思いきり時間をかけて、楽しみながら死んでいくよ。刹那主義の全く反対のところにいる。永遠の全体が常に絶頂だ。

ぼくは自分が何のために書いているのか分っている。巧名な計算すらできる。だから、この文章が手紙と受けとられようと、頭の体操として受けとられようと、かまいやしない。ぼくは代理人だ。

ぼくは代理人だ。ぼくの文章を読んでた人に会って話すと、ほとんどの人が、「渋谷さんや岩谷さんは、文章の裏にその人の実体感がイメージできたけど、あんたは、どんな人なのかケントウつかなかったし、どんな人なのか知りたいと思わなかった」という。はっきり言って、ぼくは自分のことなんてどうだっていいのだ。自分が本当に言いたいことなんてあるのかどうかさえ考えてみたこともない。ぼくは代理人だ。教育者でも保護者でもない。自分の言葉の上に他人の考えを乗せようとは思わない。他人の言葉の中に自分の考えをまぎれこませようとも思わない。ぼくは律義で頑固な老人になりたかった。

公園の芝生で寝っころがって空を見ていた。青くて広くて、まるで小学生が画用紙にクレヨンで描いたように明るかった。2〜3秒目を閉じて、急いよく開くと、空が拡がってきた。だんだん空の青がぼくを包むように落ちてきたんだ。でも本当は空が落ちてきたんじゃなくて、ぼくが上がっていただけなんだ。