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社長日記

1975年05月01日

こみゅにけーしょん 1

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標題=こみゅにけーしょん 1
掲載媒体=ヤング&子ども通信 61号
発行会社=子ども調査研究所
発行日=1975/5/1
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1.

 現代は言葉が溢れすぎている、と通説ではなっているが、それは多分、誤解なのです。溢れているのは、情報であり、あるいは情報機能としての言葉ばかりであって、今はむしろ私たちが求めている本来的な意味での言葉は、ひとりひとりの人間の中で孤立しているのではないだろうか。街は騒がしいどころか、圧倒的に荒涼としている。私達の闇を切り裂くナイフの如き言葉や、この闇をやさしく抱きしめてくれる、みずみずしい言葉にめぐり合えるのは本当にまれだ。何かが欠如しているのだ。都市生活というおよそ巨大な修飾語のために、何か決定的な〈言葉〉がインペイされてしまっているのだ。

 なぜ、情報ばかりが溢れかえっていて、言葉がないのか、と言うと、それは、何よりもメディアがないからです。現在、言われているところのメディア、例えば新聞、放送、雑誌、その他モロモロのイベント、それらのものは、最大にして単純なポイントを認識していないがゆえに最初からメディアとして失格である。問題は〈メディアの主体は何か〉という事です。メディアの主体は決してテレビ局でも雑誌社でもないし、また情報そのものでもない。メディアの主役は私達がそれぞれに自らの内部に孕んだコミュニケーション衝動である。あなたに言いたい、あなたと寝たい、あなたを殺したい、あなたに会いたい、あなたに……。そういう、まさに個的な衝動が最初にあって、それで次に、それらの衝動を通底させるべくして、機能としてのメディアが存在する。

 現代のいわゆるメディアと呼ばれているものの最大の誤解は、本末転倒であり、まず機能としてのメディアがあり、それを主体として、逆に情報を生産し、また散らしていくという公害を生み出したのであります。それゆえに編集部が中央集権的に読者を管理し操作していく事しか出来ないのである。

 メディアの本質とは、だから、具体的な結果にあるのではない。私とあなたを結びものは、決して具体的な何かを通しての当為としての関係ではないはずです。<あなたが誰であれ、どこで何をしている人であれ、あなたの痛みは、今、私のものと同質だ>とデビット・ボウイは言ってます。私達が、今、全く同質な、氷河の如き闇に閉ざされたマンモスであると自覚した瞬間から、既にコミュニケーションの成立要素は全部そろっている訳です。あとは機能としてのメディアがあれば良いのだ。だから、メディアとは、映画を観ている時だけ、本を読んでいる時だけ、つながり合えるようなものでなはなくて、メディアとは、真のメディアとは、私達の生活意識そのもの、私達の存在の在り方そのものではなくてはならないのである。

 メディアが、具体的なものの、結果として在るもの、作品であったからこそ、今までの秀れてメディアの可能性を内包した衝動は、即そのまま芸術という形で固定化され、個人主義という人格の内側に密封されてしまった。そして密封し損ねて、死んだり、おかしくなったりしてしまった。いわゆる芸術家が苦しむのは、いや苦しみを表出するのは、それによって飯を食うからであって、実際は、私達の誰もが、同質の苦しみを持っている訳で、問題なのは、その事のために、私は死にたくないという事なのです。

2.

 学校教育という単純なトンネルを下から押し上げられて、たどりついた大学を横から押し出されると、そこは国境だらけの、社会生活だった。3年ほど経ちました。友人達は何をしているのか、と、見れば、運送屋のアンチャンであり、映画館の切符モギリであり、女子高のパン売りであり、ダンボール屋の専務であり、銀行員であり、土方であり、僕はまあ写植屋であり、他には、院生であり、ヒモであり、飲屋のマスターであり、不明であり、出版屋であり、チベットの日本語教員であり、ブティック経営者であり、DJであり、主婦であり、ストリッパーであり、まだ学生であったり、要するにみんなバラバラなのです。みんなそれぞれの場でがんばっているのだろうなあ。みんなみんな僕の大好きな人ばっかりだったけど、最近は、たまに会っても、なぜかお酒を飲むか麻雀する位しか、時間を埋める事が出来ない。意識のボルテージが下がっているというより、やはり、みんながみんな、ひどく孤立しすぎているのだろう。ここのところで、この孤立感を自分自身で納得してしまうかどうかが、これからの決定的な選択判断となりそうだ。つまり、そんな淋しいだの一人ぼっちじゃ嫌だ、なんていう甘ったれたガキ根性は、きれいさっぱり捨てて、力強く一人の大人として成長するが(=クラシック的)、あるいは、所詮、人間なんて一人ぽっちなのさ、と居直りつつしょぼくれて生きるか(=演歌的)、人間って生きてるだけで淋しいのね、と感心するか(=フォーク的)、さもなくば、ロックのように、諦め悪くいつまでも子どもの位置に座り込んでワメくか。ジャズはよく知らないが、日本のジャズ。ファンっていうのは、クラシックと演歌の中間折衷型。まあ、こんな図式はどおでも良い。

 学校をおん出てから、何んとなく写植をやる事になり、見習いとして、ある小さな写植屋に入った。全部で4人小さな会社で、僕と同時に同じ年の男がやはりその会社に入って来た。

 写植というのは、集中し放っしなので、実に神経を使う仕事で−タイプ・オペごくろうさんです − 僕は朝9時30分から夜5時30分まで、定時労働をびっしりやると、もうクタクタで、家へ帰るとパタンという生活が何日も続いた。しかしその会社の社長とか古顔は、毎日、残業、残業で、11時12時になるのはザラであった。同時に入った男も、やはり毎日キツいらしくて、5時頃になるとグッタリしていて、お互い<写植って疲れるなぁ。残業なんか無理だよなあ>とグチったりしなかがら帰ったりした。

 ところが1ヶ月位して、その男が、突然こう言ったのである。
 
 <実はな、俺、毎朝牛乳配達してんだよ。4時半から8時までな。だから残業できないんだよ。社長には言うなよ。なんか残業しないで悪いみたいだからな。東京は何でも高いからな。メシ食うのも大変だ>

 僕は知らない場所に、突然取り残されたような、何が何だか分らなくなって、何も言う事が出来なかった。僕は、それまで、自分という人間がマイナーだと思った事は一回もなかったけれど、その時だけは、ひどく寂しい気持に襲われた。握りこぶしからも砂がもれて行く感触にも似ていたし、古壁がパラパラ崩れていく感覚にも似ていた。そして、それは、ある種の、敗北感に違いなかったなのだ。

 僕は一所懸命に単純労働をやりとげる障害を持つ人たちに対して、倫理的な羨望と恐怖を抱いていた。それは、僕を育てた父や母に対する、願望と反発と畏怖と不信と信用と、まことに複雑な想いに似た態度だった。それは、未だに完全にふっきれている訳ではないが、今は、むしろ希薄になりつつある。そして、全く別の意志が僕の内部にはあるのだ。おそらく、それは、僕が25になり、あと10年しなういちには、僕が既に子ども達の親となっているだろう事を確実に予感し始めたからだろうか。僕は負けたのではない。圧倒されたのだ。何を言えば良いのか、よく分らなくなってきたが、何しろ、子どもが子どものいきたいように生きる事が、決して子ども自身にとってマイナーとしての自覚を持たさないような、子ども、そして社会が必要なのだと思うのです。ロックは依然としてこう言ってます。
  世の中きびしい、と大人はいう。
  だけど、きびしくしちまったのは
  大人の方じゃないか
  あんた方はきびしい方が好きなんだよ
  変だよ あんた方は                   スパークス  /  訳・岩谷 宏



 この際ですので、宣伝をしますが、私達は72年夏より<ロッキング・オン>という雑誌を隔月ではありますが、定期的に発行しています。ロックの主役はロック・ミュージッシャンやレコードではなく、無名・無数のロックファンであるという認識を基本として、できるだけ投稿という型で原稿を掲載しています。雑誌がいわゆる商品としてしか流通しない事に対して、私達は必要以上に過大な否定も肯定もしていないつもりです。つまり、価値と屈辱感をごちゃごちゃにしない、という事です。現在は、東販・日販を通して全国販売をしていますが、スタッフが食えるという状態までには辿りついておりません。スタッフは創刊時とほとんど変わらなくて、4人。簡単に紹介しますと、

渋谷陽一 編集長。23歳。明学大3年。NHK若いこだま土曜日DJ。
       他にも執筆活動などで、ロッキングオンの営業費をかせいでいる。
岩谷 宏  33才。サラリーマン。訳書に、<ビートルズ詩集>があります。現在、私達の単行本一作目として<ロック訳詩集>を4月末刊行の予定。
松村雄作 23才。ウエイター。元ボーカリスト。

 大体以上の3人と私が写植を打って、大類信というプロのデザイナーが、やはりロハでレイアウトしてくれています。

 読者は圧倒的に中学生・高校生が多く、もともとロックがマイナーな存在で(それは予想以上に凄いものだ)学校内でロックを聴いているのは私一人、とか、ひろみやヒデキやカーペンターズに囲まれて、小さくなってロックを聴いている人が、ものすごく多かった。そしてまた、親からの圧力も強くて、母親にレコード割られたとか、ロッキングオンにする電話も手紙も、親の目を隠れて来る人が多いのでした。

 ロックについては、詳しくは、雑誌の方を見ていただきたいと思いますが、ロックの歴史を誰よりも忠実に知覚しているのが、中・高校生だと思います。ロックがメディアたり得るのは、ロックが決して、表現芸術として自分の内側で完結していなくて(勿論、ニセモノ・ロックも多いけど)、必ず、具体的な私達に向かって、あるいは同じ事だが、この闇の中を突き進んでいる私達と同じ方向へ、音を、言葉を、たたきつけているからです。そして、もっと正確に言えば、ロックがメディアではなく、ロックの背後にある闇がメディアであるならば、私達もまた、私達の闇を語る事によって初めて、本来のメディアが成立するのではないだろうか。ロックとは、インサイト・ルッキング・アウトであって、インサイドとはG・レイクが言ってるようにアウトサイドの結晶化であり、<世界の私という展開>である。


 どうでも良い事をムキになって書いたような、何となく変な気分でこの原稿は終りです。子ども調査研究所には昔ゴロゴロさせてもらって、迷惑ばかりかけたのでした。やさしい人ばっかりです。がんばらなくていい人ばかりが、がんばっている今日ですが、もっと、やさしい人ががんばらなくてはどうにもなりません。アキラメずにがんばりましょう。以上とりいそぎ失礼しました。
(きつかわ・ゆきお=写植集、東京都中野区在住)
CM ロッキングオン 隔月25日発売
   定価280円(〒70円)
   編集室 東京都中野区東中野1の55の5 土田ビル501号たちばな写植内
(入力途中。バテたので、また暇な時に続きを入力します)