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社長日記

1973年11月15日

ジョンの魂

Rockin'on 1973年11月15日発行号P.35

ジョンの魂 橘川幸夫

 ビートルズという巨大な夢を生きてきたジョン・レノンが、朝霧の目ざめの、まさに瞬間、夢の内側に置き忘れてきた肉体を懸命に回復しようと願ったのは当然である。そして、そこでの決意に似た予感(ふるえ)もまた、理のまさに然るべき当りまえの予感(ふるえ)であった。回復するためには、ジョンという肉体はあまりに夢に汚されていた。言葉の正確を期すために、あえて言えば、絶望とは何かを失う事ではない。ジョンが、ビートルズというしたたかな夢に自ら裏切られたと感じたことなど、たかだか失望に過ぎない。言葉を突き放して言えば、それは、最初からしてはいけない期待だったのである。

 思えば、夢そのものであった前期ビートルズと、現在の、また、別の角度での夢でしかないビジョンが、まがいなりとも個人たりえたのは、ほんの数年であったようだ。<ジョンの魂>は個人的であるがゆえに、極めて倫理的なアルバムである。倫理とは、もちろん社会的一般でいうモラルではない。それは個人が個人に課し、あるいは課さざるを得ない宿命の謂である。その宿命の自覚である。私は何者であらねばならぬのか、何者でありたいのか、という仮面の自覚ではない。鏡を壊す事だ。鏡を壊して、更にそこで初めて、私は何者であるか、と、きつく問う事である。

 このアルバムでジャケットで、自然(たいぼく)と女(ヨーコ)という二つの母に抱かれたジョンの姿は、ある種の回帰と同時に、出発を象徴している。この風景は、決して昼下りの憩いではなく、また残照の安らぎでもない。朝の、まだ明け切らぬ朝である。夜の深まりが鋭角であればあるほど、その中で夢が残酷な輝きを呈すれば呈するほど、早朝の風景は白じらしいほど虚脱している、という事は、街に住む人間なら誰もが嫌というほど思い知らされているだろう。つまりそこでは全てがなし終えた結果であるにも関らず、しかし陽は昇るのだ。夏の熱気が去った秋よりも、冬の沈黙をくぐり抜けた春の方が、そしてまた何も起りはしないが何かが起りそうな夏の到来を待たねばならぬ春の方が、哀しいのだ。それが<死春記>ではなかったか。

 ハンターデイビスの描いたジョンの幼少時代の像は、確か、他者に対して冷酷なほどプライドの高い少年としてあったと思った。不具者に対してその不具な欠陥を嘲笑えるというのは、僕にしてみれば、やはり異常だ。排他性の強いジョンが、自分を殺してビートルズのジョンという共同性の中で個人性を展開し得たのは奇妙な事だと思った。例え共通の利害関係や目的意識があろうとも、ジョンのような自意識過剰の男が、全く資質の違う他の3人と8年も一体化して創造活動しえたというのは不思議だ。私的に考えても、例えば家賃を払えずに下宿を追い出された者が、親友の家に転がり込んで、友情が壊れるために、そんな長い時間は要らないのだから。

 ジョンが本当に孤立して創作活動をしたのは<ジョンの魂>一枚ではなかったろうか。ビートルズという鏡を壊した彼も今はヨーコという鏡に自己を映している。かつて真崎・守と街を歩いていたら同伴喫茶が目について、なんで<同伴>が<個室>なんだ、と僕が言ったら、人間というのは二人の関係が個なんだとか笑われたが、やはり女房でももらわないと、ジョンの現在の気持ちは分からないのだろうか。

 とまれ70年のジョンの出発、それがどのような型で集約されてしまったかあるいは彼の視座がどのように拡散されてしまったかについては、僕には語る術がない。それは僕なら僕の不測の影が触れ得る未来かも知れないからだ。さけびから出発した者の無残な栄光を誰も攻める事をしてはいけないのだ。

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