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Movable Type 3.2-ja-2

社長日記

1973年11月15日

ディープパープルジャパン

Rockin'on 1973年11月15日発行号P.55

ディープパープルジャパン 橘川幸夫

 ロックというものによって、心底、変えられてしまったのは、ロックの当事者の世代ではなくて、もっと上の世代じゃないかしら……というような事を、ある三十過ぎの女性に語られてしまい、殆ど、頬っ面をはたかれる思いだった。そういえば、それまでかなりロックというものを先験性として、あまりに自明の事として、浸っていた僕自身に対して、絶えず、イチャモンをつけてきたのは何人かの三十過ぎだ。彼等の語り口には、ロック体験以前の自己に対する<何でこんな事が分からなかったのだ>という、ある種の恥らいと、彼等にしてみればロックそのものである僕らに対する、はがゆき、つまり<おまえ達はもっと凄い事を言っているんだぞ。何んでそれに気が付かないんだ>というよな彼等共通の困惑があった。むしろロックに対しての不信というのは僕の方が強くて、<ロックってそんなに凄いんですか?>と僕が表情で応えると、誰にも呆れたような嫌悪の表情が浮かんでいた。

 僕の知り合えた三十過ぎが、むしろ特殊なのかも知れない。ただ僕たちロックの当事者の世代から、ロックを超える一本のロック論が産まれていないという事は、やはり自己批評の難しさであり、人間誰しも、そんなに自分を信じきれるものではない。

 ディープパープルの言いたい事はすごく良く分る。分ったところでどうなるものでもないが、とにかく分る。あまりに分り過ぎて直接的に説明できない。納得が理解を跳び越えてしまって言葉にならない。いささかキベンじみて良くないと思うが、つまりディープパープルのやってる事は今のディープパープル自身にすら理解し得ていないのではないか、という事だ。

 閑話休題、なんてやってる余裕は本当はないのであって、巷ではユックリズムとかいう掛け声が拡がっているらしいが、実に何を今更で、こんなのはガンバリズムの裏表であって、こうした風潮に行ったり来たりしている人たちは結局、何ひとつ反省という事を知らないのだ。こうした風潮とは別に、僕たちは今、性急(せっかち)である。ただし、性急であるという事は、時間的余裕がないという事では必ずしもないのであって、僕達は社会に在る限り社会を強いられているわけで、暇、というのは、強いられた物に対して積極的か消極的かという事なのであって、つまり、ヤル気があるのかないのか、という事だ。だから、怠惰であるが性急であるという事も言えるのだし、怠惰であるからこそ性急にならざるを得ない事も往々にしてある。性急な思想、をあれだけ揶揄した啄木だって、高村高太郎に言わせればあの頃のあの人は<何かオッチョコチョイ>なんであって、今、僕が愛着を持てる人は、シラケたり悟ったりしている人ではなく、何かしらオッチョコチョイである。

 ディープパープルは殆ど滝を落下する水飛沫のように、さわやかに性急である。イアンギランの声やブラックモアの響は、ペーパーナイフのようにみずみずしくて、こういう音に愛撫されると、狂言自殺でもしたくなる。この叫びは殆んど人間に向かって発せられていなくて、むしろ人間すらもひとつの風景として肥えてしまう虚空に投げつけられた叫びだ。だから、ちっともドスが利いていなくてそれが実にしっくりくる。人間の叫びは、動物の雄叫びと違って、何らの誇示でも恫喝でもない、もっと無機的な、観念の結晶体であるはずだ。チャイルドインタイム。美しい憎しみだ。やさしい苦しみだ。恐らくギランでさえ、自分の叫びの意味を理解してはいないだろう、この石英のような叫びにこそ、やがて腐っていくであろう果実の最後の充実がある。まるで、看護婦さんが白いガーゼを裂いているように、美しい充実だ。これで良いのだ。これから実業家になろうと金貸しになろうと、一生のうちでたった一言でも全存在を叫べる瞬間があれば、どのように腐り果てようとも意味があったのだ。腐って発酵してまで、人を酔わせようなどと考えない事だ。腐ったらちゃんと腐って、この都市の大地の肥やしになれば良いのだ。

 だけどギラン。僕たちは、ここからなんだ。叫びが波紋のように拡がり、そして、もとの水面に回復してしまってからが、本当の出発なのだ。水面には、お前の投げた石っころはもうないし、おまえの叫びの痕跡である波紋もない。まるで何もなかったかのような顔をしている。おまえは、やさしいが、本当のやさしさとは、ただ単純に自分を傷つける事じゃあないのだ。大体、やさしさを誤解して定着させたのは、国立や高円寺や京都をフラフラしてる連中、つまり、かつて新宿に流れつきて新宿にから流れていった奴らだ。奴らのやさしさは、所詮、自閉症のエゴイズムと怠惰を自己肯定しただけのだらしねえ弱さでしかない。かつて、懸命にやさしさを自らに抑制してきた者が、ふっ、と<必要なんだと>呟いた地点とは、全く無縁なのだ。

 ディープパープルの音は、僕の表面積を分割するように鋭いカミソリだが今、僕が欲しいのは、もっとグサリとくるアイスピックのように、したたかなやさしさなのである。

ジョンの魂

Rockin'on 1973年11月15日発行号P.35

ジョンの魂 橘川幸夫

 ビートルズという巨大な夢を生きてきたジョン・レノンが、朝霧の目ざめの、まさに瞬間、夢の内側に置き忘れてきた肉体を懸命に回復しようと願ったのは当然である。そして、そこでの決意に似た予感(ふるえ)もまた、理のまさに然るべき当りまえの予感(ふるえ)であった。回復するためには、ジョンという肉体はあまりに夢に汚されていた。言葉の正確を期すために、あえて言えば、絶望とは何かを失う事ではない。ジョンが、ビートルズというしたたかな夢に自ら裏切られたと感じたことなど、たかだか失望に過ぎない。言葉を突き放して言えば、それは、最初からしてはいけない期待だったのである。

 思えば、夢そのものであった前期ビートルズと、現在の、また、別の角度での夢でしかないビジョンが、まがいなりとも個人たりえたのは、ほんの数年であったようだ。<ジョンの魂>は個人的であるがゆえに、極めて倫理的なアルバムである。倫理とは、もちろん社会的一般でいうモラルではない。それは個人が個人に課し、あるいは課さざるを得ない宿命の謂である。その宿命の自覚である。私は何者であらねばならぬのか、何者でありたいのか、という仮面の自覚ではない。鏡を壊す事だ。鏡を壊して、更にそこで初めて、私は何者であるか、と、きつく問う事である。

 このアルバムでジャケットで、自然(たいぼく)と女(ヨーコ)という二つの母に抱かれたジョンの姿は、ある種の回帰と同時に、出発を象徴している。この風景は、決して昼下りの憩いではなく、また残照の安らぎでもない。朝の、まだ明け切らぬ朝である。夜の深まりが鋭角であればあるほど、その中で夢が残酷な輝きを呈すれば呈するほど、早朝の風景は白じらしいほど虚脱している、という事は、街に住む人間なら誰もが嫌というほど思い知らされているだろう。つまりそこでは全てがなし終えた結果であるにも関らず、しかし陽は昇るのだ。夏の熱気が去った秋よりも、冬の沈黙をくぐり抜けた春の方が、そしてまた何も起りはしないが何かが起りそうな夏の到来を待たねばならぬ春の方が、哀しいのだ。それが<死春記>ではなかったか。

 ハンターデイビスの描いたジョンの幼少時代の像は、確か、他者に対して冷酷なほどプライドの高い少年としてあったと思った。不具者に対してその不具な欠陥を嘲笑えるというのは、僕にしてみれば、やはり異常だ。排他性の強いジョンが、自分を殺してビートルズのジョンという共同性の中で個人性を展開し得たのは奇妙な事だと思った。例え共通の利害関係や目的意識があろうとも、ジョンのような自意識過剰の男が、全く資質の違う他の3人と8年も一体化して創造活動しえたというのは不思議だ。私的に考えても、例えば家賃を払えずに下宿を追い出された者が、親友の家に転がり込んで、友情が壊れるために、そんな長い時間は要らないのだから。

 ジョンが本当に孤立して創作活動をしたのは<ジョンの魂>一枚ではなかったろうか。ビートルズという鏡を壊した彼も今はヨーコという鏡に自己を映している。かつて真崎・守と街を歩いていたら同伴喫茶が目について、なんで<同伴>が<個室>なんだ、と僕が言ったら、人間というのは二人の関係が個なんだとか笑われたが、やはり女房でももらわないと、ジョンの現在の気持ちは分からないのだろうか。

 とまれ70年のジョンの出発、それがどのような型で集約されてしまったかあるいは彼の視座がどのように拡散されてしまったかについては、僕には語る術がない。それは僕なら僕の不測の影が触れ得る未来かも知れないからだ。さけびから出発した者の無残な栄光を誰も攻める事をしてはいけないのだ。

以後を噛む ジギー・スターダスト評

標題=以後を噛む「ジギー・スターダスト評」
掲載媒体=Rockin'on 1973年11月15日発行号 P.27
発行会社=ロッキングオン社
担当=橘川
執筆日=1973/?/?
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 今日もまた何が何だか分からないままに一日が終わって行く。部屋の入り口に立つと、終わって行く一日が、その空っぽさに反して重たくなってくるのはどうした訳だろう。

 部屋の内側と外側を峻別する扉とは何なのだろう。僕は今日も帰って来たけど、何処へ帰って来たのか、帰るとはどういう事なのだろう。何も黙示されていない扉が、僕の内側と外側のはざまに重たくて位置されているだけだ。存在という事がどうしても僕たちの楽観の証明であるというのなら、軽い失望や諦念に引きずられた波間の孤児でありながら僕は、日々の飛沫の彼方に、何か、畏ろしく途方もない希望を凝視めいているかも知れない。飯を食う。生きるために飯を食う。はぎしりしながら飯を食う。

 無意識のうちにジギィー・スターダストを取り出していた自分に気付き、それを<無意識のうちに>と感じた僕の意識をえらく嫌らしいものだと思った。かつてジャニスについて書くために、まとめてジャニスのレコードを聴いていた時、<ああ、俺は今、書くために聴いているな>と感じた屈辱に似ていた。こうして自分を自身で監視している僕に対して無性に腹がたった。もちろん、現にこうして僕がそんな事を書いている以上、その怒りがどの程度本気だったのか疑わしい。自分を凝視める事が<文学者的生き方>であるなら、それによって得られるものより、遥かに失うものが大きいだろうとつまらぬ功利的な事も思ってみた。

 ボウイの声が部屋いっぱいに拡がると、いくらか安心する。お香をたく。A面が終り、B面のレディー・スターダストが初まると、もう、ほおっ、とする。レコード聴いて安心なんかしちゃいけないんだ、と思いながらも、それでも足の裏から、張り詰めた空気が抜かれてゆく。
 
 ボウイのあの、球体空間の内部で響き渡るような声。見渡す限りの凍原での叫び声が、冷たい大地に弾き返されたような声。あの声は、裏声ではなくて、むしろ声の裏側とも言うべきものであって、ボウイの存在の根底がどれほど乾いた荒野であるかを示している。

 こうした僕の言い方が、どれだけ根拠のあるものか実測できないし証拠だてもできないが、しかし、そうでなければ、僕が現にボウイの声に吸収されてしまうという事実が納得できない。そうあるべきである、という願望が、そうでなければならない、という意思に決着する事が、少なくとも、僕個人とレコード一枚の間の関係に於いて許されていると思う。僕は、ロックを、理論化したり体系化したりして、音を構造として肥える方法に興味がない。というより僕にとって、ロックとは、<さけび>でありそれ以外の事態では決してないからなのだ、自身の<さけび>を客観的に把握できるだけの余裕ががない。ロック批評というのは、もしかしたら印象批評しか成立しないのではないだろうか。ロックの音は、絶えず音という構造自体を破砕する方向としてあるはずであり、破砕した瞬間にまたぞろ別の構造に組み入れられてしまう、といった議論にアキアキしている僕は、ロックは、やはり小説でも評論でもなく詩であって欲しいと思う。秀れた詩がそうであるように、衝動とも言って良い内発力が音=言語という構造を、一瞬たりとも突抜けていなければウソであり、いわば、つんのめっているのだ。音とか言語というのは、極めて保守調整的なものであり、それは、僕たちの衝動の不可避的な発露のための、止むを得ぬ全く止むを得ぬ手段であり同時に危うい安全弁でもある。だから、僕は、構造の内部でうまくやってるロックを、楽しむ事をできるが、それだけで別段どうっていう事はない。

 ジャズならば構造として把握できるだろう。何故なら、ジャズの苦しみは<私>の苦しみではないのだから、距離が取れるのだ。しかしロックは、詩であり、小ブルのラジカリズムであるのだから僕たちの問題なのだ。三島由紀夫じゃないが、詩と論争はできない。詩は、決して僕(たち)の方を向いてはいないが、必ず、僕(たち)が凝視めている方向へ、自身を投げかけているのだ。見も知らぬボウイを僕が信用できるのは、ボウイと僕がレコード一枚を通して向かいあったからではない。僕たちの闇の中の無限歩行で、隣に友人がいる事を、そっと、せきばらいで教えてくれた、というような意味だ。僕たちが彼方のある一点を凝視めているにせよ、その一点から、一瞬たりとも目をそらす事はできないのだから、一緒に行軍している隣人は、せめて横顔位しか知覚できないのだ。それでも安心するよ。僕たちは、たぶん、共通に愛おしむべきものも持ち得なかったかも知れないが、共通に憎むべき、あるたったひとつの<目的>は持っているのかも知れないのだ。

 僕がロックを聴き初めたのは、多分音が欲しかったのではなくて、声が欲しかったのだ。ジャニスやアリスクーパーやボウイの、僕にとっては、いたく人間的な声が僕には必要だったんだ。だから僕は、それぞれの時点で、浅川マキや三上寛やあがた森魚の声が好きだった。音は結局、技術だし、努力だ。しかし声は感情であり、感情は絶対に技術なんかじゃない。声を操作できるほど僕たちの感情は甘くはない。

 ボウイは悲鳴より哀しく、怒号より真剣に、ギミーユアハンド、と叫ぶ。もちろん、この曲は、誰かに対して歌いかける、といった種類を超えた、もっと単独なさけびであり、いわば、渇望の凄まじさによって絶望せざるを得ない、というのがボウイのこの曲で位置である。ジャン・ポーラン風に言うのなら、見えないものを見るとは実は何も見ないと同じことなのであり、ボウイのステージに賭け上って、直接に僕の手を差し出す事は全く意味がないのであって、そんな事をボウイは期待しているのではない。問題なのは僕たちの誰もが、他者に差し伸べるための<手>を喪っているということだ。変な言い方だけど、それでも僕は人間が好きだ。ボウイのような声が外側から聞こえてくるうちは人間を未だ未だ信じている。ボウイの語り口は、岩谷宏の訳を通してでしか理解できないけど、言葉の背後にある切実さは痛いほど納得できる。それは僕たちの切実さと決して違いはしないのだから。