追悼 市川昌浩くん

市川昌浩くんのご冥福をお祈りします。

関係者の皆様は、こちらで、市川くんとの思い出を語ってください。
まとまりましたら、冊子にして、ご家族に渡すつもりです。
市川くんが、素晴らしい人たちに囲まれて、幸せな人生を過ごしたことを、お伝えしたいと思います。
[→橘川の追悼文はこちらです]
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No.61 橘川幸夫 デジタルメディア研究所、オンブック 代表
みんなへ。

今年の夏は暑くなりそうだね。
市川が不在になってから2週間。みんなの喪失感は大きいと思う。
特に、若い時から一緒に生きてきた仲間たちは、この掲示板に書くことも、見ることさえ耐えられない日々が続いていると思う。
でも、いつか見てくれるだろうと思って書くよ。

報告です。
市川の部屋の整理に行って、膨大な本と少年マガジンの山、そしてCDとレコードがあった。本の方は、ご家族に処分を御願いして、音楽だけ、僕が引き取った。

本は市川の知識そのものだが、音楽は市川の魂そのもののように思ったからだ。僕の事務所に大きなダンボールで10数箱が積まれた。

先日、僕が好きな若いバンド「0、8秒と衝撃。」の25才と22才の二人の若者を呼んで、好きなの選んで持っていかせた。彼らが、新しいアルバムを作る時の栄養になれば、と思った。思い出の形見分けではなく、未来への、魂の散骨だ。

市川のブログを読んでいたら、「若い人の音楽を信じています」というのがあった。市川は70年代からずっと、極めて良質な音楽リスナーであった。

▼ブログ
http:// djmars01.blog59.fc2.com/ blog-entry-24.html

市川=音楽ジャンキーのボクの座右の銘は2つあって。ひとつは「デカイ音で聴け」、そしてもうひとつは「ロックは若い人がやる音楽=若いバンドを聴け」というものなんだけど。

市川のパソコンのMP3のファイルを開けたら、最初に「0、8秒と衝撃。」があった。登録したのは1年前のようだから、ずっと聞いてくれていたんだろう。

これからすこしずつ、僕は、市川の魂をいろんな形で若い人たちに渡していこうと思う。まだ、市川のことを考えることも、話題にすることも辛く思ってる人がいると思う。

だけど、市川は、そういうみんなの生活振りを喜んではいないと思う。怒りはしないけど、あの例の、ちょっと困った顔をしてるはずだ。

死者への最大の供養は、死者が望む生活を生き延びた僕らが果たすこと。辛いけど、市川の不在を受け止めながら、現実を回復していきたいと思う。
No.60 宮 芳子 オーサリング
市川さんとは年に数回八戸にいらした時に、一緒に飲みに行っていました。
いつも、朝方まで付き合ってもらうことが多く、市川さんの知識の豊富さや話題の斬新さに驚かされていました。
他人に甘えることができない私の性格ですが「いつでも何でもどんなことでも相談に乗るし、できることはなんでも助けてあげられるよ」といつも言ってくれていました。
「無理をしなくてもいいよ」そんな言葉がいつも私の助けになっておりました。
冬頃にはまた八戸に という言葉が今でも頭から離れず、それがもう叶わないことだと思うととても残念で今でも信じられません。
まだ、自分の中で市川さんのことがうまく消化できていないのですが、前を向いて頑張っていこうと思います。
市川さん。
今まで色々とありがとうございます。
仕事の話だけではなく、料理の話やネコちゃんの話、一緒に朝市に行ったりと楽しかったです。
頂いたipadも大事にします。
本当にありがとうございました。
No.59 梅本直志 ライター
なんでそんなことになったのかわかんないんだけど、
1984年2月11日、土曜日、雪残る恵比寿、橘川幸夫事務所で、
市川さんに、バイトやんない? みたいなことを突然言われて、
そう、そして突然言われて、
おれは、なんでか『MSXマガジン』にカシオの電子手帳の新製品紹介を書くことになった。
市川さんは、アルバム一枚分ぐらい(のおかね)にはなるからさ、みたいなことを言って、
おれは、なんじゃそりゃって思った。
たとえば、字とか文章を書くことで、
なんかになるとは思っていなかったからだ。


市川昌浩さんは天才です。
でも、そのやさしさに、
おれはあまえてしまってました。なさけない。
No.58 中村友應
或る日の密談


PC誌「パワーユーザ」を刊行していたころ、
或る日、当時秋葉原にあった私の会社付近で飲んでいた。
メンバーは私を含め、滑川、市川。あと数人居たと思う。
滑川が友人を介して、当時PC誌を数十誌発行し、海外00ヶ国余りにライセンスしていたジフ・デイビスとの提携を提案した。
私は、他のジャンルで海外誌と提携した経験があるので、ハードルは低いと判断した。
酒のせいもあって、飲み会の活気の度数はおおいに上昇し、
「DOS/Vマガジン」を超える、PC界のメインストリームへ、とか口々に喋り、ビールとウイスキーは次々と追加された。
宴も絶頂の頃、店に電話がかかった。

席に戻った私は、一同に電話内容を訊ねられて、答えた。

”孫さんが、ジフ・デイビスを買収した”

その後の飲み会の活気の度数は誰もが想像つくと思う。

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市川よ安らかに。
君が最後に残した言葉の、
3つのシステムは必ず仕上げるよ。
No.57 大久保忠男 ネコ研&イーベビー
もう25年ほど前になりますが、海外データベースについての著書で、はじめて市川さんの名前を知りました。
当時、私自身がダイアログなどの米国オンラインデータベースサービスを使った調査の仕事に携わっていたので、米国の翻訳書ではなく、日本でこのような本が書かれたことに新鮮な印象を受け、名前を記憶していました。
但し、内容まで読まなかったので、どこかの大学の先生が書いたのだろうと思っていました。
それから随分経ってから、橘川氏の紹介で会った時はまだ若く、その時は、その著者と同一人物だとは気がつきませんでした。
以来、ITやオンブック出版をはじめ、いろいろなことを相談し、教えてもらい、振り返ってみると、お世話になりっぱなしでした。
いつも、相手の立場で考え、穏やかに、爽やかに処していく姿は稀有なものでした。
去年の9月、出版を希望する私の知人の相談に乗ってやってほしいというメールに対して、喜んで相談に乗りますよ、という返事があり、彼の爽やかな笑顔も一緒に届けられた感がありました。
それが、最後のやりとりでした。ご冥福をお祈りいたします。
No.56 田淵萌 でかせぎ
デメ研に通っていた2年ばかりのあいだ、お世話になった。

「市川さんはスゴイ!」という声をいろいろな方から聞いていたが、私がそのスゴさに追いつけなく、正直どうスゴいのかわからないまま、今になってしまった。

毎週木曜、スタバの甘いコーヒーを片手に、オンブックの会議に現れる市川さん。
汗だくになりながら会議の資料をコピーする市川さん。

「ねえ、今日暑くない?」「なんか新しいビル増えたね」など毎週話しかけてくださった。
なのに私は、市川さんに話かける言葉もなく(知識もなく度胸もなく)、質問もなく、過ごしていた気がする。

あと何年かで、全然別のことでもいいから、市川さんのスゴさに追い付けてるといいなぁ。そのときには質問、もっていきます。


2か月ほど前、高円寺駅のホームでお見かけしたとき(車両2つぶん離れたところにいた)、声をかけなかったのを、少し悔やんでいます。

それではまた、よろしくお願いいたします。
No.55 相模 シーフードシティ研究所 (八戸市庁)
皆さんと比べて、市川さんとはさほど深いつきあいでは無かったのですが、書かせていただきます。

市川さん、初めてお会いしたのはいつだったでしょうか?
僕の記憶が確かなら、橘川さんの出版記念パーティでしかね。
いろいろお話しをする時間はなかったのですが、穏和な方だなと思っておりました。八戸の虎鯖おいしいって言ってくれて周りの人に勧めてくれていたのを思い出します。

また、鹿野谷さんや亀田さんと一緒に始めた、八戸の通販プラットフォームの商品も買っていただいたりとなにかと気を使っていただいておりました。ありがとうございます。

八戸には、携帯オーサリングの講師としても来ていただいたようですが、残念ながらそのときは接点が有りませんでしたね。

今年になり、「MYFIRSTAOMORIキャンペーン」の関係でいよいよ一緒にお仕事が出来ると思った矢先の訃報。とても、残念です。
思うようにこちらで情報を集めることができず、ご協力できないでいると、あまり無理をしないで下さいと優しいメールをいただいておりました。
本当はもっとがんばってって思っていたでしょうが、そういうことを全然感じさせないメールに、本当にお人柄が出ていたと思います。

「MYFIRSTAOMORIキャンペーン」。最後まで一緒に出来ませんでしたが、見守っててくださいね。がんばりますので。はい。
No.54 高橋賢 編集
「それはね」
と、人差し指を立てて解説を始めるのが市川さんのクセだった。

市川さんに出会ったのは、26年前の橘川事務所。
ボクは学生アルバイトで、ドリップ・コーヒーの淹れ方から、XTCの輸入盤情報、そしてBASICまで、いろんなことを教わった。
市川さんは「なんでも知ってるひと」だから、なんでも教わったのだ。
市川さんにものを尋ねるとまず皮肉が返ってくる。
「えー、そんなの知らない」「キミはね、それだからダメなんだよ」なんて調子で。
最初は面喰らったけど、皮肉はただのご挨拶または照れ隠し、時に自分で考えなさいという示唆であって、最後には必ずちゃんと教えてくれたし、優しいひとなんだということはすぐにわかった。

その後、ボクも編集/ライターという肩書きだけは同業者になったけれども、市川さんと一緒に「仕事」をしたことはない。
それでも、初めてコンピュータを買う時はもちろん相談したし、DTPのこと、インターネットのこと、最近では電子書籍にまつわるいろんなこと、なんでも市川さんから教わった。
現実的な知識もあるれけれど、新しいことに対してどういう「態度」をとるべきかを学べたことが大きい。

わりと最近の会話のなかで、もうOSなんてどうでもいいんだよと言いながら、新時代のOS構想のようなものをちょっと語ってくれたことがある。
残念ながらボクの頭ではそのOSをイメージすることさえできなかったけれども、市川さんの頭になかではかなり具体的な形になっているようで、話をきくこと自体にわくわくさせられた。
OSを作ることがひとつの夢だったのだ。


22年前、横道さんの葬式帰り、新宿ルミネの喫茶店で市川さんたちと笑いながらとりとめもない話をした。
だからいま、また笑いながらとめもない話をしている。
No.53 村上俊一 ライター
少ないですが、数カットをアップしました。
Power User時代の写真もありますが、スキャンなので汚くてすいません。

http:// www.flickr.com/ photos/ 42161606@N03/ sets/ 72157624493368516/

今思えば話すのに夢中で、あまり写真を写していなかったのが残念です。
No.52 横村 友紀 マシュマロ専門店やわはだ
市川昌浩さん。
何度も何度もご注文頂いて、本当にありがとうございました。
はじめたばかりの不思議なマシュマロ屋に、折に触れてご注文を頂いて、それも、その時一番どきどきするような商品ばかりを選んでいかれました。

男性のお名前は珍しかったのに、訃報をぼんやり遠くで聞いてもなかなか一致することがありませんでした。
でも履歴を見直して、差し出がましいとは思いましたが、やはりどうか一言差し上げたいと思いました。

直接お会いすることは殆どありませんでしたが、少しでもあなたにとって面白く美味しく意味のあるお菓子を届けられたでしょうか?

あなたが何度も贈り物として選んでくださったこと。
そのあなたが、逝ってしまったこと。
うまく言えないのだけど、とても悲しく思います。

橘川さんの文で市川さんの人となりと未来を見据える視点を読んだ時、私はちゃんと大きな未来を見ながら試行錯誤しているだろうか?ただ現在の自分だけの今日明日に拘泥しているのではないだろうか?という強烈な問いが自分自身の中に生まれました。

どんな方法でも、私はその視点を持っていよう。
それを持っていた人がいたのだから、及ばずとも忘れずに。

お会いして「マシュマロいかがでしたか?」ってお聞きしたかったです。
新しい味、また作ったんですよ、おもしろいやつを。
選んでもらったことに恥じないだけの、おもしろくて素敵なマシュマロ、これからも作ります。
ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

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